祝福する生涯 創世記 47章 7〜10節
ヤコブはパロを祝福し・・・ (創世記47:9)
あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。 (Iペテロ3:9)
「祝福」というのはクリスチャンのキーワードの一つです。イエスの弟子の一人だったペテロは私たちクリスチャンの使命は、祝福を受け継ぐことだといいました。のところでヤコブはエジプトの王パロを祝福したと、二回も書かれています。今日は与えられています、ヤコブの晩年のエピソードから、私たちに与えられている使命について考えましょう。
1 祝福を受けるために生まれた私
祝福を手渡すためにはまず、それを受け取らなければなりません。ヤコブは、まさにこの「祝福」ということにこだわった人です。ヤコブにとって、この神の祝福はあってもなくてもいいけど、あったほうがいいかなというようなものではありませんでした。
もちろん、ここで祝福というのは何も問題がない、とか苦労がないということではありません。ここでパロの前に立ったヤコブは、自分の旅路のとしつきは、130年で、わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせだ、と言います。確かにヤコブがお父さんのイサクに祝福のお祈りをしてもらってからのヤコブの生涯は決して、人間的に言って「しあわせだった」とはいえなかったのでしょう。このふしあわせと言う言葉は、悪いことが多かったという意味です。けれどもヤコブはわずかで、苦労多く、ふしあわせな人生の中にも、決して、神さまが祝福を取り去ってしまっているとか、神さまの祝福の外側にいるとかいうのではなく、神さまの祝福の中に置かれていることを知っていたのです。この「祝福」は自分の努力や何かで勝ち取るという意味ではありません。それか神の恵みによって与えられるものです。ヤコブはその神の祝福をいただいた。それが証拠に、このヤコブが、イスラエルという名を与えられて、イスラエル12部族の先祖となっていったのでした。
2 祝福を手渡す私
ヤコブはエジプトの王の前で祝福を祈ります。祝福の祝福らしいところは、それが他の人たちに手渡されていくということなのです。ヤコブは超大国の王を祝福します。またあとで、子どもたちを集めて彼らを祝福し、その生涯を閉じていく。
そして手渡された祝福は、何代にもわたって生き続けていく、またまるで、静かな水面に石を投げ込んだときに、その軌跡が広がって行くように、祝福は祝福を呼び、広がって行く・・・私たちはそのために召され、そのために祝福をいただいたのです。
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