心をきれいに マルコ 7章 1 -23節
神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えて下さい。(10)
主イエスのところにエルサレムからパリサイ人たちや律法学者たちがやってきました。彼らはイエスの弟子たちのしていることを見て、早速ダメ出しを始めました。「洗わない、汚れた手で食事をしている」。このパリサイ人たちは、それが宗教的な汚れを意味し、また神への反逆だと主張したのです。けれども、主イエスはおっしゃったのでした。あなたはどうだ?
1 自分を見つめることの大切さ
パリサイ人たちも律法学者たちも聖書をよく読んでいる。真面目。それはすばらしいことです。けれども、主イエスは彼らの罪を指摘されます。主イエスは何とか彼らに気づいてほしい、悔い改めをすすめておられたのでしょう。確かにあなたは一生懸命かもしれない。でもあなたは神の言葉を無にしていないか。いつの間にか、決まりを守ることに熱心になって、その決まりが与えられた精神を忘れていないか・・・主イエスは人のことをいう以前に、まず自分を見つめることをおっしゃったのでしょう。
2 自分の心の中にあるものは?
主イエスはこうおっしゃいます。人の心の中にあるもの、それが心の中から出て来て、多くの人を不幸にしてしまう。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、、ねたみ、誹り、高慢、愚痴・・・確かにこれらのものが宜しくないことはよくわかる。そして私たちの多くはそこまで自分はしてないと思う。でもイエスさまはあなたがたのこころを正直に見てごらん、あなたは尊敬されているかもしれない、自分の正しさを自慢してきたかもしれない・・・でも心の中をみてごらん。聖書ではそれを罪と言います。
3 心の中をきよくしてくださる主
体が病気だったら、誰かがそれをきちんと気づいて、ここが悪い、と分かってくれた方がいい。
主イエスは、あなたの心をごらんになって、あなたの心は汚いぞとおっしゃる。それは汚い汚いと非難するというよりも、私にまかせてごらん、私の心を洗ってあげよう、きよめてあげようとおっしゃるのです。
そして知って下さい、私たちの心を清くするために、主イエスは私たちの罪を負って十字架で死んでくださいました。主イエスを信じる人は、心をきれいにしていただけます。主イエスはあるときおっしゃいました。
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