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それでいいのか マタイ18章 21〜35節
錦織博義師
互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。
(エペソ4:32)
聖書は、私たちの営みにメスを入れ、切り裂き、裁き、励まし育て建て上げながら、あなたはそれでいいのかと、神はあなたのためにこんなにして下さったのだと、語りかけ、迫ってくる神の言葉です。
この話しの発端は、兄弟が罪を犯したならば、幾度まで赦すべきですかとの発言です。兄弟は助け合うもので、愛すればこそ、憎しみもする。これが愛の本質で、本来は自己否定的、献身的なものですが、また人間の愛ほど自己主張し、利己的なものはありません。この愛の矛盾が罪の本質です。血を分けた、最も愛すべき者の兄弟が罪を犯す、ここに罪の本質が明らかにされています。自分のことを理解し、愛し喜びも悲しみも共にしてくれるはずの人が、敵になり、自分を苦しませ、罪を犯すことが起り、黙っていられずに、ペテロはぎりぎりの立場に立っていました。彼は、精一杯の七回までと言いました。これは人間の許しうる限界、極限です。
私たち人間の愛が憎しみに変わる瀬戸際で、この瀬戸際でこそ、無限に赦す神の愛が現れます。これから先は、神の領域、信仰の領域です。
主イエスは、決算の話から始められます。その日が来たら、支払わなければなりません。私たちにとって、信仰と生活、言葉と実践とが調べられ、隠れた罪が明らかになる時で、誤魔化し、言い訳、弁解も通用しません。私たちの根本にある罪を借金にたとえていますが、その共通点は返さなければならない、必ず処理、始末されなければならないことです。借金は自分のものでないのにかかわらず、自分勝手に使用している、私することです。私たちの人生は、すべて主のものです。
ただ借金を返す前に、それがどれ程のものであるかが明らかにされるべきです。ただ隠れた罪はなかなか分かりにくい。聖書によらなければ、私たちの罪は分からないのです。
私たちには、およそ返すことの出来ない、返済不能の借金です。借金は返さなければならないものです。ですから神のほうから始められ、御子主イエスを地上にお遣わしになって、この一万タラントの借金をすべてが清算され、私たちの借金は、すべて帳消しにされました。そんなことがあっていいのでしょうか。憐れみ深い神が借金を棒引きにして、損をしました。この損失、痛みこそ、支払われた代価です。私たちがこのことを信じると救われ、赦されたことを感謝し、喜びに生きることができます。こんなこと世の中にはないのです。この許しの中に生きようではないですか。
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