chuo@8008amen.com


バックナンバー

旧約聖書
新約聖書
マタイによる福音書
マルコによる福音書
(章) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
  11 12 13 14 15 16
ルカによる福音書
ヨハネによる福音書
使徒行伝
ローマ人への手紙
コリント人への第一の手紙
コリント人への第二の手紙
ガリラヤ人への手紙
エペソ人への手紙
ピリピ人への手紙
コロサイ人への手紙
テサロニケ人への第一の手紙
テサロニケ人への第二の手紙
テモテへの第一の手紙
テモテへの第二の手紙
テトスへの手紙
ピレモンへの手紙
ヘブル人への手紙
ヤコブの手紙
ペテロの第一の手紙
ペテロの第二の手紙
ヨハネの第一の手紙
ヨハネの第二の手紙
ヨハネの第三の手紙
ユダの手紙
ヨハネの黙示録
マルコ 12章1〜12節     2012年6月25日

あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか。『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』」。(10〜11)

 主イエスは、心を頑なにしている宗教的指導者たちに、悪い農夫たちのたとえ話をされます。あり得ない話です。決してあってはならない滅茶苦茶な話です。けれどもそんな滅茶苦茶な話が起ころうとしていました。神から遣わされた神の子イエスを人々は殺そうとしていたのです。特に民の指導者たち、民の模範となり、民を正しく導くべき人々がイエスが神の子である数々のしるしを見聞きしながらも、それを認めることを拒み、自分の欲と勝手な論理の下に、主イエスを残酷な仕方で葬り去ろうとしていたのです。
 主イエスがそのたとえで何を語ろうとしておられたのか、彼らには理解できました。それは神の憐れみであり、彼らに与えられた悔い改めのチャンスでした。しかし、彼らは悔い改めて、主イエスを信じることを拒みます。もし、自分の間違い、罪深さに気づいたら、素直に自分の罪を悔い改め、自分が間違っていたことを認めて、神の赦しと救いにすがることです。


  関連礼拝メッセージ: 

マルコ 12章13〜17節     2012年6月26日

するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。(17)

パリサイ人とヘロデ党とは元々は正反対の考え方を持っていました。けれども、彼らは主イエスの失言を引き出し、抹殺してしまいたいという意味で共通の思いをもってイエスに近付きます。カイザルに税金を納めて良いかどうか。パリサイ人たちはそれを快しとせず、へロデ党はそれを積極的に受け入れました。一般的にはユダヤ人たちはローマに税を納めることに不満をもっています。しかし、納めることを否定したらそれはローマ皇帝に対する反逆と言えます。彼らはイエスを追い込もうとしていました。
 しかし、イエスは硬貨の銘を見て、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」とおっしゃいます。当時、ユダヤ人たちは宮では自分たちのユダヤの貨幣を使っていました。ローマの貨幣は汚れているからと使えなかったのです。主イエスは彼らに社会的な義務を果たすようにと教えられながら、同時に何よりも神にささげるべきものをささげるようにと教えられたのです。そして神にささげるべき最大のものは私たち自身です。私たちには神の銘が彫られているからです。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 12章18〜27節     2012年6月27日

イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか・・・」。(24)

 サドカイ人たちは復活も天使も信じていませんでした。彼らは目に見えるものだけを信じ、未来ではなく今の祝福を追い求めました。特に、祭司やレビ人たちなど、神殿の奉仕者たちにこのような考えの者たちが多かったと言います。彼らはある意味、生活も保障され、今ある生活に満足して、それを失うことを恐れ、必死で自分たちが今与えられている特権を守ろうとしたのです。
 このサドカイ人たちは、復活などナンセンスだということを主張する時にいつも使っていたといわれるたとえを持ち出してイエスを問い詰めようとしました。しかし、主イエスは彼らに、「思い違い」という言葉を二度も用いて反論されます。死者がよみがえる時には、めとったりとついだりすることはない、神はこの地上の生涯を終えたアブラハム、イサク、ヤコブにも過去の人物としてではなく、今も生きている人物として語っておられるというのです。サドカイ人が復活などないと言っているのは、自分の思考の枠組みの中だけでものごとを考えるとんでもない「思い違い」なのです。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 12章28〜34節     2012年6月28日

イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。・・・」(29〜30)

 主イエスがサドカイ人たちにも見事に答えられたのを聞いて、ひとりの律法学者が主イエスに質問します。「戒めの中で、どれが一番大切ですか」。この律法学者にも自分なりの答えがあったことでしょう。けれども彼の内に、主イエスだったらどう答えられるだろう・・・と主イエスのお考えを聞いてみたいという思いがわいて来て、押さえられなくなったのでしょう。
 主イエスはこの律法学者に「神を愛することと人を愛すること」、と律法の中核になる聖句を指摘されました。私たちにとって何よりも大切なのは、神を愛することです。それは私たちの全身全霊をもって、ベストを尽くして神を愛し、具体的に神を愛する生き方を貫くことです。そして神を愛する人は自己中心に生きることはできません。そうではなく隣り人を愛します。それは遠くにいる誰かというよりも身近な誰かを愛することから始まります。そして、その土台にあるのは、私たちを救ってくださった唯一の主がいて下さるということなのです。


  2012年度の標語: 「つくして愛する」 ●聖句 マルコ12章30節

       関連礼拝メッセージ: 2012年6月3日  「心をつくして」
                 2012年6月10日 「精神をつくして」
                 2012年7月1日 「思いをつくして」
                  2012年7月29日 「力をつくして」
                  2012年8月5日 「自分を愛する」
                  2012年8月12日 「隣り人を愛する」
                  2012年8月19日 「わたしの隣り人」
                  2012年9月2日 「はるかに大事なこと」
                  2012年9月9日 「神の国から遠くない」

マルコ 12章35〜37節     2012年6月29日

このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか。(37)

 主イエスが十字架を前にして人々を教えておられる時に、宗教家たちが次々に来て、主イエスを陥れようという悪意をもった質問を投げかけていきます。その質問が一段落した時に、主イエスは彼らの姿勢について、逆に問いを発せられます。律法学者も当時の人たちも、旧約聖書に約束されていた救い主を「ダビデの子」と呼んでいました。それはある意味、間違いではなかったことでしょう。確かに救い主は、ダビデの子孫として生まれることになっていたからです。しかし、同時に、その救い主が単なる「ダビデの子」ではないことを主は詩篇一一〇篇のダビデの言葉を引用して指摘されます。
 ダビデ自身が、やがて自分の子孫の一人として送られる救い主を「わが主」と呼んでいるからです。救い主は神の右に座し、やがて神は、すべての敵をその救い主の足もとに置かれる。この救い主は単に私たちを救って下さるお方というだけではありません。このお方は、ダビデだけでなく、私たちもまた、「わが主」とお呼びして仕えるべきお方なのです。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 12章38〜40節     2012年6月30日

律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。(38〜39)

 「律法学者に気をつけなさい」と主イエスはおっしゃいました。律法学者は聖書をいつも読み、学んでいました。そして神が何を求めておられるかを絶えず研究し、また人々に教えていました。けれども、主イエスは彼らの教え、その生き方には気をつけるようにとおっしゃいます。
 確かに彼らは熱心かもしれません。熱心に見えるかもしれません。けれども彼らはいつも人も目ばかり気にし、人から良い評価を得ることにばかり夢中になっていました。人々から褒められたり、尊敬されることが大好きでした。宗教家らしい服装をし、多くの人たちに挨拶されたりちやほやされること、また上座に座ることを求めていました。
 しかし、彼らの宗教生活は見栄のためであり、その背後では貧しい人たちを踏みにじり、弱い立場の人たちから搾取していました。しかし、どんなに立派に見えたとしても神は彼らの本質を知っておられたのです。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 12章41〜44節     2012年7月1日

よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。・・・あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである。(43〜44)

律法学者がやもめの家を食いつぶしている・・・と主イエスが言及されたひとりの貧しいやもめがここで実に豊かな心で、豊かに生きていたことが明らかになります。金持ちたちはたくさんの献金をしていました。弟子たちはきっと目を丸くしていたことでしょう。ちょうどその時、見るからに貧しそうなひとりのやもめがやって来て、彼女のささげものをささげます。レプタ二つ。小さな小さなささげものでした。けれども主イエスは、彼女は他の誰よりもたくさん入れたとおっしゃいます。彼女は自分の持っていた生活費全部をささげたのでした。そして、神はそのことをちゃんと知っておられました。
 豊かさはどれだけ多くの収入があり、貯金があるか、ということでは測れません。この貧しいやもめは、とても生活が厳しく、また彼女のことを食い物にする人々も多い中で、確かに持っているものは少なかったかもしれませんが、誰よりも豊かであり、誰よりも主に信頼し、誰よりも主に愛されていたのです。


       関連礼拝メッセージ: 


礼拝メッセージ
毎週日曜日の
礼拝での
メッセージから


生活の処方箋
日々を楽しく過ごす
ためのヒントが
ここに