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マルコ 12章1〜12節 2012年6月25日 |
あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか。『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』」。(10〜11) 主イエスは、心を頑なにしている宗教的指導者たちに、悪い農夫たちのたとえ話をされます。あり得ない話です。決してあってはならない滅茶苦茶な話です。けれどもそんな滅茶苦茶な話が起ころうとしていました。神から遣わされた神の子イエスを人々は殺そうとしていたのです。特に民の指導者たち、民の模範となり、民を正しく導くべき人々がイエスが神の子である数々のしるしを見聞きしながらも、それを認めることを拒み、自分の欲と勝手な論理の下に、主イエスを残酷な仕方で葬り去ろうとしていたのです。
主イエスがそのたとえで何を語ろうとしておられたのか、彼らには理解できました。それは神の憐れみであり、彼らに与えられた悔い改めのチャンスでした。しかし、彼らは悔い改めて、主イエスを信じることを拒みます。もし、自分の間違い、罪深さに気づいたら、素直に自分の罪を悔い改め、自分が間違っていたことを認めて、神の赦しと救いにすがることです。
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マルコ 12章13〜17節 2012年6月26日 |
するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。(17) パリサイ人とヘロデ党とは元々は正反対の考え方を持っていました。けれども、彼らは主イエスの失言を引き出し、抹殺してしまいたいという意味で共通の思いをもってイエスに近付きます。カイザルに税金を納めて良いかどうか。パリサイ人たちはそれを快しとせず、へロデ党はそれを積極的に受け入れました。一般的にはユダヤ人たちはローマに税を納めることに不満をもっています。しかし、納めることを否定したらそれはローマ皇帝に対する反逆と言えます。彼らはイエスを追い込もうとしていました。
しかし、イエスは硬貨の銘を見て、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」とおっしゃいます。当時、ユダヤ人たちは宮では自分たちのユダヤの貨幣を使っていました。ローマの貨幣は汚れているからと使えなかったのです。主イエスは彼らに社会的な義務を果たすようにと教えられながら、同時に何よりも神にささげるべきものをささげるようにと教えられたのです。そして神にささげるべき最大のものは私たち自身です。私たちには神の銘が彫られているからです。
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マルコ 12章18〜27節 2012年6月27日 |
イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか・・・」。(24) サドカイ人たちは復活も天使も信じていませんでした。彼らは目に見えるものだけを信じ、未来ではなく今の祝福を追い求めました。特に、祭司やレビ人たちなど、神殿の奉仕者たちにこのような考えの者たちが多かったと言います。彼らはある意味、生活も保障され、今ある生活に満足して、それを失うことを恐れ、必死で自分たちが今与えられている特権を守ろうとしたのです。
このサドカイ人たちは、復活などナンセンスだということを主張する時にいつも使っていたといわれるたとえを持ち出してイエスを問い詰めようとしました。しかし、主イエスは彼らに、「思い違い」という言葉を二度も用いて反論されます。死者がよみがえる時には、めとったりとついだりすることはない、神はこの地上の生涯を終えたアブラハム、イサク、ヤコブにも過去の人物としてではなく、今も生きている人物として語っておられるというのです。サドカイ人が復活などないと言っているのは、自分の思考の枠組みの中だけでものごとを考えるとんでもない「思い違い」なのです。
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マルコ 12章35〜37節 2012年6月29日 |
このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか。(37) 主イエスが十字架を前にして人々を教えておられる時に、宗教家たちが次々に来て、主イエスを陥れようという悪意をもった質問を投げかけていきます。その質問が一段落した時に、主イエスは彼らの姿勢について、逆に問いを発せられます。律法学者も当時の人たちも、旧約聖書に約束されていた救い主を「ダビデの子」と呼んでいました。それはある意味、間違いではなかったことでしょう。確かに救い主は、ダビデの子孫として生まれることになっていたからです。しかし、同時に、その救い主が単なる「ダビデの子」ではないことを主は詩篇一一〇篇のダビデの言葉を引用して指摘されます。
ダビデ自身が、やがて自分の子孫の一人として送られる救い主を「わが主」と呼んでいるからです。救い主は神の右に座し、やがて神は、すべての敵をその救い主の足もとに置かれる。この救い主は単に私たちを救って下さるお方というだけではありません。このお方は、ダビデだけでなく、私たちもまた、「わが主」とお呼びして仕えるべきお方なのです。
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マルコ 12章38〜40節 2012年6月30日 |
律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。(38〜39) 「律法学者に気をつけなさい」と主イエスはおっしゃいました。律法学者は聖書をいつも読み、学んでいました。そして神が何を求めておられるかを絶えず研究し、また人々に教えていました。けれども、主イエスは彼らの教え、その生き方には気をつけるようにとおっしゃいます。
確かに彼らは熱心かもしれません。熱心に見えるかもしれません。けれども彼らはいつも人も目ばかり気にし、人から良い評価を得ることにばかり夢中になっていました。人々から褒められたり、尊敬されることが大好きでした。宗教家らしい服装をし、多くの人たちに挨拶されたりちやほやされること、また上座に座ることを求めていました。
しかし、彼らの宗教生活は見栄のためであり、その背後では貧しい人たちを踏みにじり、弱い立場の人たちから搾取していました。しかし、どんなに立派に見えたとしても神は彼らの本質を知っておられたのです。
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マルコ 12章41〜44節 2012年7月1日 |
よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。・・・あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである。(43〜44) 律法学者がやもめの家を食いつぶしている・・・と主イエスが言及されたひとりの貧しいやもめがここで実に豊かな心で、豊かに生きていたことが明らかになります。金持ちたちはたくさんの献金をしていました。弟子たちはきっと目を丸くしていたことでしょう。ちょうどその時、見るからに貧しそうなひとりのやもめがやって来て、彼女のささげものをささげます。レプタ二つ。小さな小さなささげものでした。けれども主イエスは、彼女は他の誰よりもたくさん入れたとおっしゃいます。彼女は自分の持っていた生活費全部をささげたのでした。そして、神はそのことをちゃんと知っておられました。
豊かさはどれだけ多くの収入があり、貯金があるか、ということでは測れません。この貧しいやもめは、とても生活が厳しく、また彼女のことを食い物にする人々も多い中で、確かに持っているものは少なかったかもしれませんが、誰よりも豊かであり、誰よりも主に信頼し、誰よりも主に愛されていたのです。
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