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ローマ 1章1節 2013年8月20日 |
キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、使徒となったパウロから(1) 今日からローマ人への手紙を読み始めます。新共同訳聖書では「ローマ信徒への手紙」という書名になっているのですが、こちらの方が、この手紙の性質をより正確にあらわしていると言えるでしょう。パウロはおそらくその三回目の伝道旅行の途上、エペソで伝道していたのですが、おそらくそのエペソから、まだ訪ねたことのないローマにいるキリスト信徒たちに対して、この手紙を書いています。この手紙は非常に神学的であると共に、実際的であり、壮大です。一〜八章においてパウロはまず、福音とは何であるかを神学的に論述します。九〜一一章では、今度はその神の福音が歴史の中でどのように展開されていったのかを説き、一二章以降では福音に生きる者の、実際的な生活について語っています。
パウロはここでまず、自己紹介をします。自分は何者であるか。パウロはそこで、開口一番言うのです。私はキリスト・イエスの僕だ。私たちも同じような告白をさせていただきたいと切に思います。
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ローマ 1章2〜4節 2013年8月21日 |
この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである。(2〜3) パウロは自分がキリスト・イエスの僕であり、福音のために選び別たれた者だ、と言います。福音とは「良い知らせ」ということです。まさにまるで、よいニュースを知らせる号外のように響き渡るのです。
それではその「良い知らせ」とはどのようなものなのでしょうか。それは「御子に関するもの」です。このお方は神の御子です。このお方について、神は旧約聖書の時代からずっと予告しておられました。そのお方が神の約束の通りにダビデの子孫として生まれてくださった。しかし、このお方は殺されてしまう。けれども、このお方は死を打ち破ってよみがえり、私たちが信じ受け入れるべき救い主として、提示されているのです。
私たちに与えられている福音、グッドニュースは、この、「私たちの主イエス・キリスト」です。何が与えられたとか、何か良いことがあったとか、得をしたとかいうことではありません。まさにこのイエス・キリストこそが最高のグッドニュースであり、喜びなのです。
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ローマ 1章5節 2013年8月22日 |
わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと、彼によって恵みと使徒の務とを受けた(5) このところでパウロは、自分たちは、この主イエスによって恵みと使徒の務めとを受けた、と言います。最初、この「使徒」という名前で呼ばれていたのは、主イエスの十二弟子だけでした。主イエスがその名を彼らに与えられたからです(ルカ六13)。ですから、教会の中でもパウロに反発する人たちはパウロの使徒性に対して疑問を呈しました。この「使徒」という言葉には「特別な使命を与えられて遣わされた者」という意味があります。その意味では、まさにパウロには、自分は復活の主イエスから直接使命を与えられて使徒として立てられた、という自覚があったのです。
彼に与えられた使命は、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるということでした。ここで「信仰の従順」と言われているのは、「信仰、すなわち従順」という意味です。信仰は必ず神に対する従順をもたらします。パウロは異邦人をそのように導く使命を与えられていたのです。
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ローマ 1章6〜7節 2013年8月23日 |
ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ(7) パウロはこの手紙を、ローマにいるクリスチャンたちに書き送っています。パウロはまだ会ったことのない兄弟姉妹たちを「聖徒」と呼びます。これは第一義的には道徳的に正しく優れた模範的な人々という意味ではありません。もちろん、ローマのクリスチャンたちにも多くの課題があるに違いありません。しかし、パウロは確信し、また断言しています。あなたがたは「聖徒一同」だ。そこには何の疑いも躊躇もありません。ここで「聖」とは「神のものとして贖い出され、神のために生きるようにと取り分けられたもの」という意味があります。
ここでパウロはローマの兄弟姉妹たちに、あなたがたは神に愛されている方々、神のために召された者たちだ、というのです。それはまさに、パウロが自分自身、神の恵みによって、神の御前に感じていることでした。
私たちも神に愛されています。神に選ばれ、その御真実によって支えられています。そして、それぞれ、特別な使命を与えられています。自分だけではありません。私たちお互いがそのような神の「聖徒」たちなのだということをいつも知りたいと思います。
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ローマ 1章8〜12節 2013年8月24日 |
それは、あなたがたの中にいて、あなたがたとわたしとのお互の信仰によって、共に励まし合うためにほかならない(12) パウロはまだローマを訪ねたことがありません。しかし、ローマにいる信者の評判はどこでも耳にすることができました。そしてパウロは、ローマを訪ねることを切望していました。しかし、今は道が開かれておらず、神の御旨の時ではないと感じています。どのような事情があったかは定かではありませんが、実際にパウロがローマを訪ねるのはこの手紙を書いてからなお数年後ということになります。
パウロはなぜローマを訪ねたいと願っていたのでしょうか。一つには、パウロは自分に与えられた賜物を知っており、その賜物がローマのクリスチャンたちにも大きな助けになることを知っていたからです。けれども、単に助けに行くから、というだけでなく、同時にパウロは、そのことが自分にも大きな励ましになると言います。そして、それは実際にそこに行って、顔を合わせて語り合う中で生まれてくるものだということをパウロは知っていたのです。
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ローマ 1章13〜15節 2013年8月25日 |
わたしには、ギリシャ人にも未開の人にも、賢い者にも無知の者にも、果たすべき責任がある。(14) 実際、パウロはこれまでにも何度もローマに行こうとしてきました。「妨げられてきた」というのが何を意味しているのかは分かりません。具体的な妨害があったのかもしれませんし、またパウロの側の事情があったのかもしれません。しかし、パウロにはどうしてもローマに行きたいという強い願いがありました。
もちろん、単に旅行に行くとか、知り合いに会いに行くとかいうことではありません。パウロはローマにおいても福音を伝えたいと願っていたのです。「すべての道はローマに続く」と言われ、世界中から人々が集まってくる大都会・・・そこには主イエスのことを知らない多くの人がいます。
パウロは、そこに「果たすべき責任」を感じていました。ギリシャ人であっても未開の人であっても、賢い人にも無知な人にも、自分は負い目を持っている・・・自分は福音を知っている、彼らは知らない、だから自分は彼らに福音を伝えなければならない、というものでした。私たちは誰に対して、福音を伝える責任があるでしょうか。
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ローマ 1章16〜17節 2013年8月26日 |
わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。(16) パウロは言います。「わたしは福音を恥としない」。パウロは福音のために多くのものを失い、また非常に大きな苦難を負うことになりました。また人間的には、はずかしめを受けることも多かったと思います。しかし、パウロは福音を恥じて語るのを止めてしまうことはありませんでした。なぜなら、この福音はすべて信じる者に、救いを与える大きな力をもっていることを知っていたからです。
この福音によって与えられる救いをパウロは「神の義」と言います。この「神の義」については神が与えて下さる救いのことなのですが、これは三章でまた展開されていきます。神の救い、神によって与えられる義は、信仰によって始まり、信仰に至ります。私たちは信じて救われます。しかし、この「信仰」はただ救われる時だけのものではありません。信仰によって日々歩み続けます。そして、また信仰によって歩む中でさらに深い神への信頼と信仰へと導かれて行くのです。
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ローマ 1章18〜23節 2013年8月27日 |
神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。(20) さてパウロは、挨拶と導入部に続いて、本論に入っていきます。そして、まずこの一章18以降のところでは異邦人の罪について論じます。
パウロはすべての人間が神の怒りの下に置かれていると言います。人間の不義と不信心に対して、神が怒っておられるのは明らかです。けれどもユダヤ人たちはともかく、聖書を知らない異邦人たちはどうして神を知ることができるでしょうか。異邦人たちに責任を問うことはできるのでしょうか。パウロはここで、神が創造された世界を見ると、そこには見えないけれど、力をもって世界を創造し、治めておられる神がおられることが確かに分かる、と言います。まさに被造物の中に神がご自身を啓示しておられるからです。
人は神を知っているのです。ですが、このお方を神としてあがめることなく、感謝することもしません。そして、知恵があると自負しながら、神ならぬ偶像を自分で作って、それを拝んだりするのです。
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ローマ 1章24〜25節 2013年8月28日 |
彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。 (25) 人は神に似せて、神のかたちに造られました。しかし、人間は神に背き、神を無視するようにして生きていくようになりました。まさに自分の心の求めるままに生きるようになってしまったのです。人間は神のかたちに造られた自分の体を乱用し、自分の思いのままに使うようになりました。そして神の栄光をあらわすべき、自分の体を汚していきます。神を無視する生き方には、昔から性的な乱れが伴うことが多いのです。
人は神の真理を虚偽だとして否定します。そして、自分を造ってくださった神を捨てて、神に造られた被造物を拝み、これに仕えました。いろいろな動物や天体、森羅万象、そして人間さえも神と取り替えるようになってしまうのです。被造物を創造者に変えるとは本当に愚かなことです。しかし、神に背を向けて生きると、正常な判断ができなくなります。
私たちは、私たちを造ってくださった創造者なる神に栄光を帰して生きるべきなのです。
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ローマ 1章26〜27節 2013年8月29日 |
それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え・・・。(26) 私たちが、神に背を向け、神を拒んで罪の中に生きていこうとする時に、神がそれに直ちにストップをかけるのではなく、なすがままにまかせておられることがあります。それは神がそのことを喜び、認めておられるということではありません。神は、人間をロボットではなく、自由意志をもった存在として造られました。神は、私たちがその与えられた自由をもって、神を自発的に愛し、自発的に信頼し、従うことを期待しておられます。
自由には責任が伴います。しかし、神は私たちを直ちに裁いて滅ぼすことはなさいません。神は忍耐をもって、私たちが悔い改めることを待っておられるのです。
神が最初人間を造られた時、神は人間を男と女に創造し、男と女が夫婦となって、人格的な交わりを持つようにと定められました。しかし、人間は神に背き、不自然な性的な関係の中に身をまかせるようになってしまったのでした。パウロの時代の地中海世界にも性的な乱れは広がっていました。
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ローマ 1章28〜32節 2013年8月30日 |
そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。(28) このところでパウロは罪の本質に切り込んでいます。まさにそれは私たちを創造し、私たちを愛していてくださる神を認めない、ということなのです。被造物である私たちが創造者である神を認めないとは本当に愚かで恐ろしいことです。
そこが狂ってくると、人間関係にも狂いが生じ、また正しいことと悪いこととが分からなくなっていきます。このところでパウロは、そこから出てくる罪のリストを上げています。このリストを見る時に私たちは、時代が違い、また場所が違っても、人間の罪の諸相は何も変わらないことを見ます。
そして、人間は、たとい聖書の神を知らなかったとしても、罪の中に生きる者に神の裁きがあることを知っています。悪いことをする者が裁かれるということを知っているのです。しかし、人は自ら罪を犯すことを止めず、また罪の中に生きる者に注意することもありません。もし、自分が裁かれるべき者であることを知ったら直ちに罪から離れ、神に救いを叫び求めることです。
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