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マルコ 10章1〜12節 2012年6月12日 |
彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。(8〜9) 主イエスが群衆を教えておられた時、パリサイ人たちが近づいて来て、質問をしました。それは離婚の是非に関する問いであり、主イエスを試み、わなにかけようとするものでした。主イエスの時代、女性の立場は弱く、男性の側の様々な理由で離婚されるということがあったようです。そして、モーセが申命記二四1で言ったことがその根拠とされました。
離婚に追い込まれるようなギリギリの状況はあるかもしれません。けれども、主イエスは天地創造の時からの結婚の本来の姿は全く違っていることを指摘されます。一人の男性と女性を出会わせ、結婚に導かれるのは神です。神が二人を一体とされるのです。ですから、結婚は「ひとまず結婚して、だめなら離婚すれば良い」というようなものではありません。
結婚に対する考え方や価値観が大きく変わっている時代です。結婚を導かれる神に信頼し、今与えられているパートナーを愛し、大切にしつつ、結婚を重んじるお互いでありたいと思います。
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マルコ 10章13〜16節 2012年6月13日 |
よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。(15) 人々が主イエスのところに幼な子たちを連れてきました。主イエスに手を置いて祝福していただきたいと思ったのでしょう。けれども弟子たちは子どもたちやその親たちをたしなめます。この時代、子どもは軽く見られていました。また弟子たちなりに、主イエスに対する負担を心配したのかもしれません。けれども、主は子どもたちを受け入れ、愛し、祝福したいと願っておられました。
主イエスは弟子たちに対して憤られます。このことはどうでもよいことではありませんでした。そして、主は「神の国はこのような者の国」とおっしゃっいます。幼な子は何の疑いもなく、そのまま信頼して、神の国を受け入れる・・・。そのような姿勢がなかったら神の国にははいれません。
神の国に入るのに必要なのは知識や能力や貢献や成熟度や努力ではありません。そこに入るのに必要なのは子どものような信頼なのです。
関連礼拝メッセージ: |
マルコ 10章17〜22節 2012年6月14日 |
イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。・・・そして、わたしに従ってきなさい」。(21) 主イエスのところに一人の人が走り寄ってきました。彼はとても真剣に一つの問いをします。それは、永遠の生命を受けるためには何をしたらよいか、という問いでした。彼は小さい頃から律法を学び、それを守る人格者だったのでしょう。けれども、彼の中には、自分が永遠の命を持っているという確信がありませんでした。何かが足りない・・・彼はそのことに気づいていました。ただ、何が足りないのかが分からなかったのです。
主イエスは彼を見つめ、いつくしんで、彼に足りないことを指摘されます。主が求められたのは、持ち物を全部売り払って貧しい人たちに施し、無一物になって主イエスに従うということでした。
主イエスは永遠の生命を持つためには、まず財産を全部献金しなさい、施しなさい、と教えておられるのではないでしょう。永遠の生命はどれだけ善行を積んだとか、努力・貢献したかということではなく、物やお金にすがるのではなく主イエスにすがり、従う者に与えられると言うことを教えられたのです。
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マルコ 10章23〜27節 2012年6月15日 |
イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。(27) 金持ちの青年が主イエスのもとを顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った時、主イエスは、財産のある者が神の国に入ることは難しい、とおっしゃいました。多くの財産を持っていると、しばしば神にすがるのではなく、その地上の財産にすがるようになってしまうからです。
けれども、この主イエスの言葉は意外性と驚きをもって弟子たちに受け止められます。それは財産を持っているということは神に祝福されているしるしとして理解されていたからです。
弟子たちは主イエスに問います。もしお金持ちが神の国に入るのがほとんど不可能と見えるほどに難しいとしたら、誰が救われるでしょうか。主は弟子たちを見つめて「人にはできないが、神にはできる」と語られました。そうです。まさに私たちは自分の力で自分を救うことはできません。それができるのは神だけです。そして、私を救うためには神は、主イエス・キリストの十字架というとんでもないことをしてくださったのです。
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マルコ 10章28〜31節 2012年6月16日 |
よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。(29〜30) ペテロが主イエスに言います。あの財産家は自分の財産を捨てて主に従うということができなかったけれど、自分たちは一切を捨ててあなたに従っています。確かに、弟子たちはそれぞれ、自分の家族や家を残し、また仕事も捨てて主イエスについてきていました。
ペテロの言い方は、彼が主イエスの言わんとしたことをまっすぐには理解していなかったことを示しています。けれども、主イエスは弟子たちの献身を喜び、受け止め、その献身が報い豊かなものであることを約束してくださいました。福音のために大切なものを献げ、犠牲とする人に、神はその百倍の恵みを与えて下さるのです。この地上においては確かに主に従うことによって迫害を受けることもあるでしょう。しかし、この世にあっても、きたるべき世にあっても祝福は確かです。ただ、同時に主イエスは自分はこれだけしていると誇る者が、あとになるということも語られます。自分を誇るのではなく、どこまでも謙虚に仕える者たちでありたいと思います。
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マルコ 10章32〜34節 2012年6月17日 |
さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。(32) 主イエスと一行はエルサレムに向かっていました。弟子たちは主イエスが次にエルサレムに上られる時には、必ず何かが起こると思っていました。具体的に言うと、主イエスは王として即位し、ローマを駆逐して新しいイスラエルの王国時代が始まると期待していたのです。
ただ弟子たちは、エルサレムに向かわれる主イエスの姿に自分たちの思い以上の並々ならぬものを感じます。従う者たちが驚き怪しみ、怖くなるほどでした。主イエスがエルサレムに上ろうとしておられたのははずかしめられ、捨てられ、苦しめられ、さげすまれて、十字架で死ぬためでした。私たちのために救いを用意するためにはどうしても罪のない神の子・主イエスの受難が必要だったのです。しかし、そのことは主ご自身にとっても、決して軽々しく考えることのできないことでした。それは神の御心の中を歩むことを何よりの喜びとする主イエスにとっても大きな覚悟を必要とすることであり、またとんでもなく大きな苦しみを伴うことだったのです。
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マルコ 10章35〜45節 2012年6月18日 |
人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。(45) 主イエスが大きな覚悟をもってエルサレムに向かおうとしておられる中で、主イエスの弟子のヤコブとヨハネの兄弟が主イエスのもとにきて、主イエスの栄光の時に右と左に座る者としてほしいとお願いします。主イエスが王になったら、その王国でナンバー2と3にしてほしという願いです。ヤコブたちがこのことをお願いしたことは、他の弟子たちの憤慨するところとなります。他の弟子たちも皆、主イエスの横の座をねらっていたからです。
主はそんな弟子たちの、かしらになりたい、偉くなりたいという願いを否定はされません。ただ、主はもしそうだったら、仕える人、すべての人の僕になれ、と教えられたのです。主ご自身がまさにそのような生き方をされたからです。主は神であられたのに、人の姿を取り、どこまでも仕えて、ついには私たちが罪赦され、救われて永遠の命を得るために、ご自分の命さえも与えてくださったのです。
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マルコ 10章46〜52節 2012年6月19日 |
イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。(51〜52) 主イエスはエルサレムに向かう途中にエリコに立ち寄られます。その道ばたに盲人のこじきのバルテマイが座っていました。彼は主イエスが通られるのを聞いた時に、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び求めます。ダビデの子とは、旧約聖書に約束された救い主の称号です。彼は大胆にも主イエスを神の立てられた王なる救い主と告白し、あわれみを叫び求めます。主イエスは彼を通り過ぎることはありませんでした。
主イエスはこのバルテマイに「わたしに何をしてほしいのか」と問いかけられます。彼は自分の前を通る人たちに施しを請うて生きてきました。けれども、彼は主イエスには金銭は求めません。またヤコブやヨハネのように地位や名誉も求めません。彼が求めたのは「見えるようになること」でした。バルテマイは主イエスは自分を救い、いやし、見えるようにしてくださることができると信じていたのです。
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