chuo@8008amen.com


バックナンバー

旧約聖書
新約聖書
マタイによる福音書
マルコによる福音書
(章) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
  11 12 13 14 15 16
ルカによる福音書
ヨハネによる福音書
使徒行伝
ローマ人への手紙
コリント人への第一の手紙
コリント人への第二の手紙
ガリラヤ人への手紙
エペソ人への手紙
ピリピ人への手紙
コロサイ人への手紙
テサロニケ人への第一の手紙
テサロニケ人への第二の手紙
テモテへの第一の手紙
テモテへの第二の手紙
テトスへの手紙
ピレモンへの手紙
ヘブル人への手紙
ヤコブの手紙
ペテロの第一の手紙
ペテロの第二の手紙
ヨハネの第一の手紙
ヨハネの第二の手紙
ヨハネの第三の手紙
ユダの手紙
ヨハネの黙示録
マルコ 9章1〜8節     2012年6月7日

すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。(4)

 「六日の後に」という言葉に、弟子たちにとって、このペテロの信仰告白、そして変貌山の出来事がどれほど大きな事であったかということが分かります。主イエスは、十二弟子の中からただ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られました。
 しかし、その山で、主イエスの姿が変わり、その衣は白く輝いたのでした。主イエスはその本来の栄光の姿の片鱗を見せられたのです。
 そこにエリヤとモーセが現れます。エリヤもモーセも、イスラエルが危機の時代に、人々を救い、人々を神にもう一度向かわせた人物であり、モーセは律法を、エリヤは預言者を代表していました。つまり、この二人は旧約聖書を代表する二人だったのです。ここで主イエスは、エルサレムでなし遂げようとしておられる十字架の救いについて彼らと語り合っていたのでしょう。彼らは主イエスを励ますために遣わされたのだと思います。
 私たちが危機の中に置かれる時にも、聖書の人物たちの生涯を思い返し、彼らと聖書を通して対話するのは大きな助けとなることでしょう。


  関連礼拝メッセージ: 

マルコ 9章9〜13節     2012年6月8日

一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。(9)

 ペテロたちは主イエスの栄光のお姿を、またモーセやエリヤの姿を見ました。彼らは見たこと・聞いたことを話したくてたまらなかったことでしょう。彼らは主イエスが確かに救い主であり、神に遣わされたお方であることを知ったのです。けれども、主イエスは、まだ誰にも話さないようにと命じられます。人々がそのような話を聞くと、十字架に邪魔が入るかもしれないと主イエスは思われたのでしょう。
 ただ、彼らが見たことを語るべき時が来ます。それは主が死人の中からよみがえる時です。主イエスがよみがえりに言及されたのは、八31に続いて二回目です。しかし、よみがえるためにはまず死ななければなりません。主イエスは必ず、多くの苦しみを受け、はずかしめられなければならなかったのです。けれども、主イエスの死は死で終わりません。主は死を打ち破ってよみがえられ、栄光をお受けになったのです。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 9章14〜29節     2012年6月9日

イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。(23〜24)

 山の上でペテロたちがすばらしい光景を見、天からの声を聞いていた時、山の下では大変なことが起こっていました。弟子たちが律法学者たちに問い詰められ、大勢の群衆たちが彼らを取り囲んでいました。
 一人の父親が霊につかれた息子を連れてきて、弟子たちに助けを求めた。弟子たちがその霊を追い出そうと試みたができなかった・・・というのです。主イエスは、彼らの不信仰を深く嘆かれます。
 その父親は主イエスに「もしできれば・・・」とお願いします。父親の気持ちも分からなくはありません。この父親は何度も裏切られ、また失望してきたのです。けれども主イエスは、父親の不信仰を指摘されます。信じる者にはできるのです。父親は、子ども以上に自分が憐れみを必要としていることに気づかされたのでした。そして「不信仰なわたしを、お助けください」と叫ぶ父親を主は助けて下さったのでした。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 9章30〜37節     2012年6月10日

だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない。(35)

 主イエスは弟子たちにまた、受難の予告をされます。主イエスは十字架へ十字架へと向かっておられたのです。けれども、そのような時にも弟子たちは、誰が一番偉いかと論じ合っていたのでした。弟子たちはエルサレムで主イエスが王になった時に困らないようにきちんと序列を決めておきたかったのかもしれません。ただ難しいのは、弟子たちがみな自分が一番になりたいと考えていたことです。私は「一番」なんて狙っていないという人であったとしても、「少なくともあの人よりは上になりたい」と思っているものではないでしょうか。
 主イエスは一番先になりたかったら、一番後になり、みんなに仕える人になるようにと教えられました。主イエスはまたひとりの幼な子を立たせ、抱いて、このような幼な子のひとりを受け入れるようにとおっしゃいました。子どもがとても軽く扱われている時代でした。けれども先に立つということは、このような小さな幼な子をも受け入れ、彼らにも仕えるということなのです。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 9章38〜50節     2012年6月11日

あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい。(50)

 ヨハネは、主イエスの名を使って悪霊を追い出している人がいたのを見付けてやめさせました、と主イエスに報告します。しかし、主はヨハネをいさめられます。主イエスの名によって力ある業を行いながら、主イエスをそしることはできないからです。
 イエスはまた、神が小さな愛の業をも覚えて下さっていることを教え、またどんな小さな者でもつまづかせてはならないことを教えられました。
 「火で塩づけられる」ことを主は求められました。私たちは混ぜ物や汚れた物を全部取り除いていただいて、塩けのある生き方をしたいと思います。それは腐敗を防ぎ、味をつける塩の働きを指しているのでしょう。私たちはきよめられ、清い生き方をし、また神の聖さを指し示す生き方がしたいと思います。ただ、それは自分を義とし、人を裁いてこき下ろすようなものであってはいけません。冷たいきよめではなく、「互いに和らぎ」、そこに平和をもたらすような聖を追い求める者でありたいと思います。


       関連礼拝メッセージ: 


礼拝メッセージ
毎週日曜日の
礼拝での
メッセージから


生活の処方箋
日々を楽しく過ごす
ためのヒントが
ここに