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マルコ 13章1〜2節     2012年7月2日

イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか・・・」。(2)

 主イエスの時代、エルサレムの神殿はそれはそれは見事なものだったと言われます。ヘロデ王の時代から四六年間工事を続けてもまだ完成ではなく、最終的に完成したのは、イエスの死後三〇年以上たった紀元六四年だったと言います。高さ五〇メートルで、屋根は金、その他は白い石で作られたというその神殿はそれはそれは見事で、神殿の周囲は大きな石を使った城壁で囲まれていました。その神殿の見事さを見るために世界中からユダヤ教徒だけでなく、観光客たちも集まってきたと言われるほどです、
 ガリラヤから来た弟子たちがその神殿の荘厳さ、立派さに打たれるのは至極当然のことです。しかし、主イエスは、あなたは何をながめているのかと問われます。多くの年月をかけて作られたこの神殿は完成後数年で紀元七〇年にローマによって徹底的に破壊されてしまいます。
 私たちはいったい何を見ているでしょうか。壊れることのないものをきちんと見つめているでしょうか。


  関連礼拝メッセージ: 

マルコ 13章3〜8節     2012年7月3日

人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。(5〜6)

 オリブ山はエルサレムの東側にあります。そしてオリブ山から見ると、エルサレムの神殿の全域を見渡すことができます。主イエスは宮に向かって座り、何を考えておられたでしょうか。そこに主イエスの弟子の中で、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネという二組の兄弟たちが主イエスに近づいてきました。そして、神殿から出て行く時に、主イエスが語られたのを聞いて以来、ずっと気になっていたことを主イエスにお尋ねしたのでした。いつこの神殿が崩れるようなことが起こるのか、そのことの起こる前にどんな前兆があるのか、という問いでした。
 主イエスはこの神殿がローマによって破壊される紀元七十年だけでなく、世の終わりに起こることについて語り始められます。確かに前兆があります。偽キリストの出現、戦争と戦争のうわさ、地震、ききんなどです。けれども、主は、人に惑わされないようにとおっしゃいます。多くの人を惑わそうとする者たちがいるからです。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 13章9〜13節     2012年7月4日

何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。(11)

 主イエスは終わりの時が来る前に、苦難の時代、主イエスの弟子であるゆえに、憎まれたり、捕らえられたり、殺されたりすることがあるとおっしゃいます。それは決してやさしいことではないでしょう。そこでは耐え忍ぶということが求められています。しかし、そのような困難な状況もまたあかしの機会となります。不思議な事です。そのようにして御国の福音はまずすべての人に宣べ伝えられていくのです。
 一体何を語ったらよいのでしょうか。私たちは恐れ、また不安になり、心配するかもしれません。しかし、主イエスは、「前もって心配するな」とおっしゃいます。準備してはいけないということではないでしょう。いつでも証しができるように備えているのも大切です。けれども、実際には、必要な時に、聖霊が語るべきことを示してくださいます。ですから、語るのは、私たち自身ではなく聖霊なのです。私たちは共にいてくださる聖霊に信頼して、人々の前に立つのです。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 13章14〜23節     2012年7月5日

にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、しるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。だから、気をつけていなさい。(22〜23)

 「荒らす憎むべきものが立ってはならぬ所に立つ」とは神殿が汚されることを示しています。そして紀元七十年には実際に、この神殿は徹底的に破壊されたのでした。けれども、主イエスが再び来られる前にはなお多くの苦難があるでしょう。
 また様々な苦難だけではなく、信じる者たちの中にも、「キリストがここにいる、あさこにいる」と言って、人々を惑わす者たちがいるのです。そのような人たちは巧妙に話しかけ、また不思議な業を行って、信じる者たちをも惑わそうとします。
 私たちは目に見えるところに惑わされやすいものです。不思議なこと、大きな事、数が多いことに驚き、またそこに神の働きを見ようとします。けれども不思議な事が起こること自体は、神の祝福のしるしとは限りません。私たちは、その人の語ること、またしていることをしっかり見極めながら、神のみこころを知りたいと思います。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 13章24〜27節     2012年7月6日

そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。(26)

 主イエスは、まもなく十字架にはりつけにされて死のうとしておられました。それはそれは惨めで、恥ずかしい十字架です。文字通りさらしものにされ、あざけられ、馬鹿にされるのです。主イエスは確かに変貌の山では、その栄光の姿をあらわされましたが、馬小屋に生まれ、貧しい田舎の大工の息子として生まれ、公生涯に入られてからも「枕するところもない」というような毎日を送ってこられました。金銭的な豊かさや、豪華な家屋敷などにも縁がありませんでした。主イエスの地上の生涯はまさに最初からある意味十字架の連続でした。
 けれども、天体が揺り動かされる中で、今度は主は二度目に大いなる力と栄光とをもって来られます。私たちはこの主イエスの再臨を持ち望んでいます。そして、主イエスが再臨される時には、主は世界中から選ばれた民たちを集めてくださいます。主イエスを信じる者たちは喜びをもって主をお迎えし、また主も、主を信じる者たちを地のはてから天のはてまで集めてくださるのです。


       関連礼拝メッセージ: 

マルコ 13章28〜37節     2012年7月7日

だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。(35)

 いちじくの木を見ていると季節が分かるように、主が語られた前兆が起こってくる時に、主イエスの再臨が「戸口まで迫っている」ことを知らなければなりません。主イエスの再臨は確かに近づいています。
 どんなに変わらないと思えるような世界もやがては終わっていきます。けれども、主イエスの言葉は変わることがありません。必ず実現して行きます。この言葉に信頼して歩むことが大切です。
 ただ、主のお言葉の実現する時、主イエスの再臨の日時はわかりません。それは父なる神だけが知っておられます。ですから、私たちはいつ主がおいでになってもよいように目を覚まして備えていることが大切です。そして、ここで求められているのは、特別なことというよりも、主を待ち望みつつ、自分に与えられた務めに日々忠実に生きるということなのです。


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