バックナンバー
|
Tテモテ 1章1〜11節 2014年6月7日 |
わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。 (5) この手紙は次の第二の手紙と共に、パウロが自分の愛弟子のテモテに書き送った個人的な手紙です。テモテはこの時、エペソ教会の若い牧者として奉仕していました。パウロはこの時には自由の身でしたが、明らかに迫害の足跡は近づいていました。そのような意味でも、パウロは自分の長く過ごしたエペソの町で現在奉仕しているテモテを励まし、また指導するためにこの手紙を書いたのです。
パウロは、違った教えや作り話・空論などに走っている人々のことを語り、テモテに警戒を呼びかけます。彼らは律法を語り聖書を語って、一見非常に優れた知者・宗教家のように見えながら、不毛な議論や汚れた生活に取り込まれ、健全な教えからは大きく離れていました。それに対してパウロは愛を語ります。そして、その愛は人間的なもの、不法や汚れにつながったものではなく、清い心と正しい良心と偽りのない信仰を土台としたものだったのです。
|
Tテモテ 1章12〜17節 2014年6月8日 |
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。 (15) パウロは、神の栄光の福音をゆだねられている喜びと不思議を語ります。パウロは主イエスに出会う前は「神をそしる者、迫害する者、不遜な者」でした。パウロは自分のことを「罪人のかしら」とさえ言います。もちろん、彼は主イエスを知らず、主イエスを信じることもなく、激しい情熱をもって教会を迫害していたのです。しかし、私たちもまた自分が「罪人のかしら」だということが分かっていないと、神の恵みの大きさが分かりません。自分は「かしら」ではない、自分も悪いけれど自分よりも悪い人がたくさんいる、と思っているうちは、私たちは神さまの恵みが分かりません。どこか自分の功績や優秀さのゆえに救われるかのように思っています。
しかし、このような罪人の私を救うために、キリストは来てくださった・・・私たちはこの福音を喜びと確信をもって受け止めることができるのです。そして、主は単に私たちを救ってくださっただけでなく、寛容をもって受け入れ、主の御用のためにお用いくださるのです。
|
Tテモテ 1章18〜20節 2014年6月9日 |
わたしの子テモテよ。以前あなたに対してなされた数々の預言の言葉に従って、この命令を与える。あなたは、これらの言葉に励まされて、信仰と正しい良心とを保ちながら、りっぱに戦いぬきなさい。(18) パウロがテモテにこの手紙を書いたのは、テモテのことを心配していたからです。パウロがテモテを心配したのは、実際に迫害の時代の中にあって、また様々な異なった教えが出てくる中で、「信仰の破船」に会った人たちがいたからです。ここでパウロはテモテも知っている人々の中からヒメナオとアレキサンデルの名前を上げます。彼らはかつては正しい良心をもって共に戦った人々でした。しかし、彼らは正しい良心を捨ててしまったゆえに、信仰の船が壊れてしまったのでした。
信仰とは戦いです。主イエスを信じてバプテスマを受けたら終わりというものではありません。この戦いを私たちに戦わせるものとして、パウロは「以前あなたに対してなされた数々の預言の言葉」と言います。これは未来を予知する言葉というよりは、パウロがテモテに語った勧めの言葉であり、公の場で、また個人的にテモテに語ってきた説教のことです。パウロはその言葉を思い起こし、励ましを得るようにと勧めるのです。
|
|
|