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マルコ 15章1〜5節 2012年7月19日 |
しかし、イエスはピラトが不思議に思うほどに、もう何もお答えにならなかった。(5) 夜が明けると、ユダヤ人議会の指導者たちは主イエスをローマ総督ピラトに引き渡します。この当時、ユダヤ地方はローマの直接的な支配の下に置かれており、ローマ総督の許可なしに死刑を行うことはできなかったからです。ユダヤ人指導者たちは自分たちの裁判では神を冒涜する者だということで主イエスに死刑を宣告したのですが、ローマの裁判では冒涜罪というものがないことを知ってましたから、ここで罪状をすり替えます。つまりローマの総督ピラトに引き渡す段階では、このイエスはユダヤ人の王と言っているという、ローマに対する反逆者として訴えたのです。
ユダヤ人たちは声高にイエスを訴え、口汚くののしったことでしょう。けれども、主イエスはただ黙しておられました。もし弁解しようとすれば、ユダヤ人たちを論破するに十分な言葉を持っておられたことでしょう。しかし、イザヤ書五三章に預言されているように、主イエスはほふられゆく小羊のようにただ黙々と十字架に向かって行かれたのです。
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マルコ 15章6〜15節 2012年7月20日 |
それで、ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。(15) 総督ピラトは、ローマ皇帝から任命されて、ユダヤを治めていました。彼は、ユダヤ人たちの性根もある程度理解していました。宗教家と言っても、自分たちの既得権益を守ることばかりに関心が言っていることも、こうして主イエスを引き渡してきて、「反逆罪だ」と声高に叫んでも、実際にはローマのことを考えているのではなく、人々の注目を集めている主イエスをねたんでいるだけだということもお見通しでした。
ピラトは、主イエスを有罪としたとしても、祭りの時の慣習に従って、釈放しようと心に決めていたのでしょう。けれども、事態は彼が思ってもみない方向に進んでいきます。群衆は祭司長たちにそそのかされて、バラバをゆるし、イエスを十字架につけるようにと叫んだのです。
ピラトはそれでも毅然とした態度をとって、主イエスを釈放することができたことでしょう。しかし、彼は暴動を恐れ、また群衆を満足させようとします。彼は人の目を気にして真実を曲げたのでした。
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マルコ 15章16〜21節 2012年7月21日 |
そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた。(21) ローマの兵隊たちは粛々と十字架刑の準備をします。イエスをばかにして、さんざん弄んだ後、彼に十字架を負わせてゴルゴタに向かわせたのです。しかし、主は夜通し引き回された疲れもあったのでしょう。十字架を刑場まで持っていくことができません。そのとき、シモンというクレネ人がそこを通りかかります。クレネとは北アフリカ、今のリビアにある町です。彼はアフリカから過越の祭りを祝うためにわざわざ時間とお金をかけてエルサレムに来たのでしょう。そしてたまたま刑場に向かう行列に出くわしたのです。
彼は十字架を無理やり負わされます。十字架を負ったシモンは汚れた者としてそのあとの祭りを祝うことが許されなかったことでしょう。こんな不合理なことがあるでしょうか。しかし、後に彼の名前はその子たちの名前と共に教会の歴史の中に刻まれることになったのでした。
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マルコ 15章22〜32節 2012年7月22日 |
祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない・・・」。(31) 主イエスは二人の強盗に挟まれるようにして十字架につけられます。主イエスの来ていた衣までもが、兵卒たちによってくじ引きにされます。これも旧約聖書に約束されていた通りでした。そこを通る人たちは口々に主イエスをばかにします。また宗教家たちもイエスをあざけります。彼らが一致して言ったのは「十字架から降りてきて自分を救え」ということでした。主イエスは今までどれだけ多くの人を救ってきたかしれない、けれども自分を救えなかったら何にもならない、十字架から降りてきたら信じることも考えてやる、ということでした。
主イエスは十字架から降りることもできました。けれども、あえて十字架から降りることをなさらなかったのです。もし、主イエスが十字架から降りてしまったら、信じる者に与えられる罪のゆるしと永遠の命という救いの道は開かれることはなかったでしょう。まさに主イエスをあざける人たちのために、主は十字架の苦しみをになわれたのです。
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マルコ 15章33〜41節 2012年7月23日 |
イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。(39) 主は午後三時に、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれます。これは詩篇十八篇の言葉なのですが、十字架につけられ、私たちの罪を負ってくださった主イエスがまさに神に捨てられてくださったことを示しています。本当は捨てられるべきだったのは、罪深い私たちの方です。しかし、主イエスが捨てられてくださったおかげで、私たちは捨てられることなく、神の子としていただけるのです。
主イエスが息を引き取られたとき、十字架刑を執行する責任者だった百卒長が「まことにこの人は神の子だった」と言いました。彼は何人もの犯罪人の処刑に立ち会ってきたことでしょう。けれども、この人は特別だったと告白しないではいられなかったのです。まことにこの方は神の子、というのは今も告白され続けている告白です。この神の子の苦しみによって、私たちのための救いの道、神に大胆に近づく道が開かれたのです。
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マルコ 15章42〜47節 2012年7月24日 |
アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。(43) 主イエスが十字架につかれたのは過越の祭の金曜日、イスラエルの人たちにとっては、一日は日没に始まり日没に終わりますので、日没と共に安息日が始まろうとしていました。安息日には何も仕事はできません。しかも、過越の祭の時に、遺体をそのままにしておきたくないということの中で、早急な決断と行動が求められていました。
その時、七十人議会のメンバーの一人だったアリマタヤのヨセフが立ち上がります。そして「大胆にも」ピラトのもとに行って、イエスの遺体の引き取り方を願い出たのでした。主イエスは、まがりなりにもローマ皇帝への反逆者として処刑されていました。またユダヤ人議会ではイエスを神を冒とくする者と断罪していました。また今、遺体に触れることは、祭りへの参加ができなくなることを意味しています。けれども、この一番大事な時に、ヨセフは自分の信仰の旗色を鮮明にしたのでした。
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