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マルコ 14章1〜9節 2012年7月8日 |
この女はできる限りの事をしたのだ。・・・全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう。(8〜9)
イスラエルで一番大事な祭の季節が近づいていました。イスラエルをエジプトから救い出してくださった主の恵みに感謝する祭です。その祭を前にした大事な時に、主を愛し、聖書を愛する宗教指導者たちが主イエスを捕らえ、殺す相談をしています。主イエスを信じないということは何と恐ろしいことでしょうか。
その時、ベタニヤ村では、イエスを囲んで食事会がもたれていました。そこに一人の女が入って来て、非常に高価で純粋なナルドの香油を主イエスの頭に注ぎかけたのでした。ある人々はこの女のしたことを見て、もったいない、とんでもない無駄遣いだ、お金の使い方を間違っている、と憤慨します。
けれども主イエスは彼女のささげものを喜んでくださいました。この女が主ご自身がこれからしようとしていることを理解してくれていると感じられたのです。「無駄だ!」と人々は叫びました。しかし、これ以上の無駄はない、これ以上もったいないことはないということを、まず主イエスご自身がしてくださったのです。
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マルコ 14章10〜11節 2012年7月9日 |
ときに、十二弟子のひとりイスカリオテのユダは、イエスを祭司長たちに引きわたそうとして、彼らの所へ行った。(10) イエスの十二弟子の一人のイスカリオテのユダのしたことは、直前の記事でひとりの女がしたこととあまりにも対照的です。ヨハネは、「無駄遣いだ!」と女を非難したひとりがこのユダだったと記録しています。ユダには主イエスのしていることが理解できませんでした。
ユダは主イエスを捕らえるための手引きをすることを自ら申し出て、報酬を受けます。けれどもユダがイエスを裏切った動機は単にお金が欲しかったからということではなかったでしょう。
彼はおそらく主イエスに失望したのです。地位や名誉を得ること、金持ちになり、また権力を握ること、そういったことにまるで無関心で、まるでその逆をいくかのような主イエスの姿は、ユダの持っていたメシヤ像とあまりにもかけ離れていたのでしょう。それが人間の現実です。人間は自分の思い通りにならない時には神をも見捨て、見限っていく・・・。そこには自分が中心であり、いわば神にとって変わろうとするかのような姿があります。それが罪の恐ろしさなのです。
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マルコ 14章12〜16節 2012年7月10日 |
弟子たちは出かけて市内に行って見ると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。(16) イスラエルには三つの大きな祭がありました。過越の祭、ペンテコステ(七週の祭)、そして仮庵の祭です。特に過越の祭はエジプトで奴隷であったイスラエルの民が主の力強い御手によって贖い出されたことを記念する日でした。イスラエルが解放されるにあたってエジプトには十の災いが下されました。その十番目はエジプト中の初子が死ぬという災いでした。今までイスラエルを決して解放しなかったエジプト王パロもとうとうイスラエルを手放します。エジプト中どの家でも死人のいない家がないという中で、イスラエルの家は災いが過越したのです。けれどもそのために、イスラエルの民は小羊を殺してその血を、入り口の二本の柱とかもいとに塗らなければならなかったのです。その血が塗られている家は災いが過越しました。この小羊の血は、主イエスが十字架の上で流される血潮を示しています。十字架はまさに、この過越の祭の時に起こりました。そして、この十字架によって、主にすがる者のための救いの道が開かれました。主イエスはその意味でも、弟子たちと守る最後の過越の祭をとても厳粛に受け止められたのでした。
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マルコ 14章17〜21節 2012年7月11日 |
そして、一同が席について食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。(18) 主イエスはすでに、イスカリオテのユダが自分を裏切ろうとしていることを知っておられました。それはとても厳しいことでした。主イエスはおっしゃったのです。主イエスの近くにいて主イエスの教えを一番多く聞き、一番主イエスを理解しているはずの十二弟子の一人が、主イエスを裏切ろうとしている、と。
弟子たちはイエスの言葉を聞いて不安になります。もし、自分がその主イエスを裏切る一人だったらどうしよう・・・。自分は決してそういうことはしない、と思いながらも、主イエスがそのことを口にされた時に、何が起こるか分からない、という思いになったのかもしれません。
主イエスはなぜこのようなことを言われたのでしょうか。イスカリオテのユダもこの言葉を聞いていました。主は何とかユダが悔い改めてほしいと、最後の最後まで悔い改めるチャンスを下さっていたのです。けれどもユダはそのチャンスを無にしてしまいます。神の呼びかけにまっすぐに答える者たちでありたいと思います。
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マルコ 14章22〜26節 2012年7月12日 |
取れ、これはわたしのからだである・・・これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。(22、24) 主イエスはこの最後の晩餐の中で、最初の聖餐式を執行されました。主イエスはパンを取り、祝福してこれを裂き、弟子たちに与えられます。それは十字架の上で裂かれる主イエスのお体を指していました。次に杯をとって感謝してそれを弟子たちに渡されます。弟子たちはその杯から共に飲んだのです。それは主イエスが十字架の上で多くの人たちのために流す契約の血を表していました。旧約聖書の時代、契約が結ばれる時には、動物が殺され、その血が契約の書と、民に振りかけられました。まさに契約を結ぶ時にはそのしるしとして血が流されなければならなかったのです。それは契約が命をかけて守られることを意味していました。私たちが主イエスを信じる時、主イエスが十字架の上で流してくださったその血潮のゆえに。そのお約束に基づいて、私たちの罪はゆるされ、神の子としていただけるのです。
私たちはこの聖餐を繰り返すたびに、主が十字架の上でなし遂げてくださった救いの御業を思い起こし、キリストの肉と血にあずかることによって、今も主が私たちの内に住んでいてくださることを確認し、主の再臨を待ち望むのです。
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マルコ 14章27〜31節 2012年7月13日 |
ペテロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。みんなの者もまた、同じようなことを言った。(31) 主イエスは弟子たちに、あなたたちは自分につまづくとおっしゃいます。それは主イエスを見捨てて逃げていくということを意味していました。けれども、ペテロは言います。「他のみんながつまづいても、私はつまづきません」。けれども主はさらに厳しいこと、具体的にどのようにペテロが主イエスを裏切るかということを教えられました。それはペテロが実際に、主イエスを知らないと否んでしまった時に、主イエスがすでにそれを知っておられたということを伝えるためです。主は全部をご存じだったのです。
けれどもペテロは自分を過信していました。まだ自分を信じることができました。しかし、すぐにペテロは自分の弱さをイヤというほど知らされることになります。
ただ同時に主はまた自分の贖いの死の向こうによみがえりがあるということをはっきりと語られたのです。
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マルコ 14章32〜42節 2012年7月14日 |
「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。(36) 主イエスはエルサレムが見渡せるゲッセマネの園で祈られました。それは真剣で、苦しい祈りでした。マルコはイエスが「恐れおののき」「悩み」「死ぬほど悲しみ」と書き記しています。主は祈られます。「どうか、この杯をわたしからとりのけてください」。それは十字架が避けられるものだったら避けたい、他に人が救われる道があるならそれを選ばせていただきたいという祈りでした。主イエスの十字架は決して軽々しくとらえることのできないものだったのです。それは極度の肉体的な痛みだけではなく、人の前ではずかしめられ、馬鹿にされるという精神的な苦痛、そして何よりも、私たちの罪を身代わりに負うことによって父なる神に見捨てられるという霊的な苦しみを意味していました。
けれども主は「しかし、私の思いではなく、みこころのままに」と祈られました。そして祈り抜かれた主イエスは十字架に向かって行かれたのです。
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マルコ 14章43〜50節 2012年7月15日 |
イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが進みよってきた。また祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。・・・弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。(43、50) ユダは接吻をもって主イエスを裏切ります。夜であり、またテレビも写真もない時代のことです。主イエスに逃げられることもなく、間違いなく捕らえることのために、ユダは手引きをしたのでした。剣や棒をもった群衆がイエスに近付いてきました。けれども、主イエスは逃げることはありませんでしたし、また剣も棒も必要はありませんでした。主イエスはこの事が聖書の成就のためだと言って、自ら進み出るかのように捕らえられていったからです。
ユダだけではありません。聖書は「弟子たちは皆」イエスを見捨てたと言います。この弟子たちはつい数時間前に、主イエスと死ぬことになっても、イエスを見捨てることはしないと大見得を切った人々です。けれども、いざその場面になった時にはだれも主イエスについていくことはできませんでした。それが人間の現実です。私たちも主イエスを捨てたのです。ですから私たちは皆主イエスの救い、罪の赦しが必要なのです。
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マルコ 14章51〜54節 2012年7月16日 |
ペテロは遠くからイエスについて行って、大祭司の中庭まではいり込み、その下役どもにまじってすわり、火にあたっていた。(54) 弟子たちは、皆主イエスを見捨てて逃げていきました。自分が一緒に捕らえられてしまうかもしれないという時に、彼らは怖くなったのです。自分の命が惜しくなったのです。それでも彼らには良心がありますから、遠くから主イエスについていこうとした者たちもいました。
亜麻布をまとってイエスについてきた若者は、このマルコによる福音書を書いたマルコだったのではないかと言われます。マルコは十二弟子ではありませんでしたが、主イエスと行動を共にしていたのでしょう。彼は捕まりそうになって、裸で逃げていきます。
ペテロも主イエスについていきます。しかし、主イエスを捕らえていった人々に見つからないように、こっそり、遠くからついていったのでした。ここに後でペテロが主を三度否んでしまう、その背景があります。
主は、私たちに遠くから、こっそり、誰にも気づかれないようについて来るのではなく、主イエスと共に歩むようにと求めておられます。
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マルコ 14章55〜65節 2012年7月17日 |
大祭司は再び聞きただして言った、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」。イエスは言われた、「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。(61〜62) 捕えられた主イエスがまず最初に連れて行かれたのはユダヤ人議会(「サンヒドリン」とか「七十人議会」と言われます)でした。議長は大祭司であり、彼らは最初から、最終的な判決を決めていました。そして、主イエスを死刑にするために、なりふり構わず次々に偽証者たちを立てて行きます。ただ、時間がなかったこともあったでしょう、証言が食い違ってしまいます。
最後に業を煮やした大祭司がイエスに尋ねます。あなたは神の子、キリストか。主イエスは「わたしがそれだ」と語られ、また自分がやがて、栄光の主として天から下ってくることを語られたのでした。大祭司は主イエスの言葉をけがし言と断定し、議会は主イエスに死刑判決を下します。
しかし、主イエスは本当に神の子、救い主でした。「わたしがそれだ」とおっしゃる主イエスの御前に、私たち自身が問われています。主イエスを信じて受け入れるか、拒み、嘘だと言って抹殺するか、のどちらかなのです。
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マルコ 14章66〜72節 2012年7月18日 |
ペテロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。(72) 寒い夜だったのでしょう。中庭に潜入していたペテロは何食わぬ顔をして、人々と一緒に火にあたっていました。大祭司の女中の一人がペテロに「あなたはあのイエスと一緒だった」と言います。ペテロはそれを否定して、庭口の方に離れていくのですが、その女中が他の人に「この人はあの仲間の一人だ」と話しているのを聞いて、再び必死でそれを打ち消します。しばらくすると何人かの人たちがペテロの方に来て、「あなたは絶対にあの人の仲間だ」と言ったときに、ペテロは、何を言っているのかさっぱりわからない、と言い張り、激しく誓い始めます。ちょうどその時に、鶏が二度目に鳴いたのでした。
ペテロは、そこではっと我に返ります。彼は主イエスがつい数時間前に自分におっしゃっていたことを思い起こしたのでした。失敗することもあるでしょう。けれども、そこでイエスの言葉を思い起こすことのできる人は幸いです。ペテロはここで主の言葉を思い起こし、自分の弱さをいやというほど知らされて泣いたのでした。
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