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Tペテロ 1章1〜2節     2014年9月29日

イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。(2)

 今日からペテロの手紙に入っていきます。この手紙は主イエスの弟子であり、初代教会のリーダーのひとりであったペテロから、小アジア、今で言うトルコにある教会の信徒たちに書き送った手紙です。
 パウロはその手紙の受け取り手たちに対して、主イエスの血の注ぎを受け、御霊のきよめにあずかった人々だと言います。私たちは自分で自分をきよめるのではありません。主の十字架の血が私たちをすべての罪や汚れからきよくします。また、注がれた御霊が主イエスの血潮を二一世紀に生きる私たちにも適用してくださるのです。
 しかし、どうして私がそのような主の恵みにあずかったのかというのは本当に不思議な事です。立派な人なら他にも大勢います。才能の豊かな人も数多く見いだすことができるるでしょう。しかし、ただ一方的な神の愛と恵みによる選びによって、私たちはこの祝福の中に入れていただいたのです。

Tペテロ 1章3〜9節     2014年9月30日

あなたがたは、イエス・キリストを・・・愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。(8〜9)

 ペテロの手紙を受け取る人々は、様々な試練の中で悩み苦しむことがあったのでしょう。しかし、同時に、ペテロはそれはいましばらくのことに過ぎないと言います。それに対して、神が私たちに約束してくださっているのは、「朽ちず汚れず、しぼむことのない資産」です。そして、やがての日、私たちは賛美とほまれと栄光をもって主の御前に近づくことができるのです。
 このアジアにいるキリスト者たちは、この地上を歩まれた主イエスにはお会いしたことがありませんでした、。しかし、ペテロは彼らが主イエスを愛していることを知っていました。また彼らは、主イエスを信じて、「言葉につくせない、輝きに満ちた喜び」に満たされていました。彼らが、死んでよみがえり今も生きておられるお方を信じて、魂の救いをいただいていたからです。私たちも同じ救いをいただいています。主の御前に心から感謝し、喜びをもって仕えていきたいと思います。 

Tペテロ 1章10〜12節     2014年10月1日

それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事である。(12)

 今、私たちに与えられている救いは旧約聖書の時代から預言されてきたことでした。しかし預言者たちは、神が遣わされる救い主について語りながらも、自分が語っていることを十分に理解できなかったことでしょう。それは、神が遣わされる救い主が栄光にあずかる前に、苦難の中に置かれることを知ったからです。これは人間の知恵を越えたことでした。そして、預言者たちが語っていたように、主イエスが来てくださいました。そして主イエスは私たちの罪を負って、十字架の上で苦難を味わい、死んでくださいました。しかし、主イエスは三日目によみがえって栄光にあずかられたのです。
 預言者たちによって語られ、主イエスにおいて実現したこの救いは、聖霊に満たされた人々の宣教の働きによって、今や私たちにも告げ知らされました。主イエスの十字架・復活によってもたらされたこの救いは、御使いたちもうらやむほどのものなのです。

Tペテロ 1章13〜17節     2014年10月2日

あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。(15)

 このすばらしい主イエスによる救いをいただき、天にある朽ちず、汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者とされたお互いは、主イエスの再臨を待ち望み、今、与えられているこの地上の生涯をおそれの心をもってすごすべきです。
 主イエスを知る前に、無知のためにしていた欲情のままに生きる歩みから離れ、あらゆる行いにおいて聖なる者となるのです。ここで引用されているのは旧約聖書のレビ記十一章45節の言葉です。聖なる主によって、聖なる民として召し出されたイスラエルの民は、主のものとされた者にふさわしい歩みをすることを期待されていました。
 もちろん、聖なる者となる、というのは、自分の精進努力で達成できることではありません。召してくださる聖なる主が、地上を歩む私たちにもそのことをしてくださるのです。ただ、主のものとして、聖なる歩みをするという願いを持ち、決断をするのは私たちの責任です。主を待ち望みつつ、従うお互いでありたいと思います。

Tペテロ 1章18〜21節     2014年10月3日

あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。 (18〜19)

 ペテロは小アジアにいる異邦人キリスト者たちに言います。まさにあなたがたは先祖伝来の空しい生活の中にいた。神も望みもなく、自分の欲のおもむくままに生きていた。しかし、今は神を信じる者となり、信仰と望みに生きている。
 それは私たちの業によってなったことではなく、私たちのことを愛してくださった主が、私たちのためにしてくださったことです。神は私たちを愛し、私たちが滅びないで救われるために何をしてくださったのでしょうか。たとえば、私たちがピンチの時に、私たちの家族や友人は私のためにどのくらいのお金を用意してくれるでしょうか。しかし、主が私たちのために払ってくださた犠牲は金や銀ではなく、全く罪も汚れもない主イエスの血という、考えられないような大きな犠牲でした。この主イエスのあがないのゆえに、このお方を信じ、このお方に望みを置く、私たちの救いは確かなものなのです。

Tペテロ 1章22〜25節     2014年10月4日

あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。(23)

 私たちは主イエスを信じて救われました。しかし、それは私たちが天国への希望に生きる者とされたというだけではありません。私たちは真理に従ってたましいをきよめ、兄弟愛に生きるものとされたのです。神を愛するのはもちろんですが、偽りのない愛をもって兄弟姉妹を愛する生涯へと私たちは招かれています。遠くの誰かではなく、ごく身近にいる信仰の友や、親しい人々を偽りのない愛で愛する・・・それはたてまえや言葉だけのことではないのです。
 なぜそんなことができるのでしょうか。主を信じる私たちは朽ちない種から生まれたからです。朽ちない種とは神の御言のことです。目に見えるものはみな変わり、またすたれていきます。しかし、神の言はいつまでも残ります。この変わらない御言が、私たちを新しく生まれさせるだけでなく、私たちの信仰生涯を間違いなく導くのです。



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