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マルコ 6章1〜6節     2012年5月21日

そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。(5〜6)

 主イエスはご自身が育たれた郷里の町ナザレに行かれました。主イエスが会堂でお話しになった時、人々は主イエスの教えに驚きます。すばらしいと感嘆します。けれども、彼らは主イエスを信じることはしませんでした。彼らにとって、イエスはあくまでもマリヤの息子で、大工で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟でした。そして、イエスを救い主として受け入れることはできなかったのです。
 イエスの教えに感心し、すばらしいと思うことと、イエスを信じることとは別のことです。ナザレの人々の不信仰は、主イエスが驚き怪しまれるほどでした。そして、そこでは力ある業を一つもすることができなかったのでした。主イエスは力のある方です。けれども、信仰がないところではその力ある業を行うことをなさいません。主イエスの力ある業は、単に人々をびっくりさせるためではなく、そのことが誰かの救いにつながるところで行われるからです。


  関連礼拝メッセージ: 2012年2月12日 「イエスの驚かれた不信仰」

マルコ 6章6〜13節     2012年5月22日

また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように命じられた。(8〜9)

 主イエスは十二弟子を呼び寄せ、二人一組で送り出されます。悔い改めを宣べ伝え、悪霊を追い出し、病人を癒すためです。一人ではなく、共に祈り、共に仕える仲間と一緒に遣わされていくということは本当に感謝なことです。主イエスは彼らにその働きのために必要な権威と賜物とを与えて、遣わされたのでした。
 主イエスは遣わすにあたって弟子たちにいくつかの注意をされます。一つは杖一本の他、何も持たないようにということでした。最小限のものだけを持って彼らは出て行きました。持ち物が多いと、持ち物に頼ったり、人に頼ったりしてしまうものです。彼らは養って下さる神さまに頼ることを学び、神の御真実を経験する必要がありました。
 もう一つは、一つの町に入ったらいろいろな家を渡り歩くのではなく、一つのところにとどまるようにということでした。主は弟子たちを支える器をそれぞれの町に備えてくださっていたのです。


       関連礼拝メッセージ: 2012年2月19日  「大きな使命、身軽な旅路」

マルコ 6章14〜29節     2012年5月23日

それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。(20)

 ここで出てくるヘロデは主イエスが生まれた時のヘロデ大王ではなく、ヘロデ大王の子で、この当時、ガリラヤとペレアを治めていたヘロデ・アンティパスという人物です。彼は自分の兄弟の妻であったヘロデヤを妻とします。バプテスマのヨハネは、それは姦淫にあたると非難しました。しかし、ヘロデは正しいことを言ったヨハネを捕らえて投獄してしまったのでした。
 ただ同時にヘロデは、ヨハネが正しく聖なる人であることを知っていました。ヨハネの言っていることが正しいことも分かっていたのです。ヘロデは、そのような聖なる人に危害を加えることによって自分に裁きが臨むことを恐れ、彼を捕らえながらも保護していました。時々ヨハネを呼び出しては話を聞いていたほどです。ヨハネはヘロデにも悔い改めを勧めたでしょう。ヘロデもそれを聞きながら悩みました。ヘロデにも良心があったのです。けれども、悩みながら従うことを拒み続けているうちに、とうとうヨハネを殺害することになります。神の御声を聞いたらすぐに従うべきなのです。


       関連礼拝メッセージ: 2012年3月4日  「二つの生き方」

マルコ 6章30〜44節     2012年5月24日

それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。みんなの者は食べて満腹した。(41〜42)

 使徒たちは伝道旅行から帰ってきて報告会をします。主イエスは弟子たちと共に休もうとされました。確かに彼らには休みが必要でした。けれども、実際には、彼らには休む時間は与えられませんでした。人々は先回りするようにして、主イエスを待っていました。主イエスも人々を見捨てることをなさいませんでした。
 やがて夕刻が迫ってきます。弟子たちは群衆を解散させることを提案しますが、主イエスはこの群衆に食べるものを用意したいと思っておられました。ただ状況がそれを許さないことは明白です。そこは寂しい所であり、群衆は男だけでも五千人であり、手元にあるのはただ五つのパンと二匹の魚だけでした。しかし、主はそのパンと魚を祝福し、それらを裂いて、人々に配らせられたのでした。そしてそこにいた全員が満腹しました。
 私たちの持っているものがどんなにわずかであっても、主イエスの祝福の御手の中に置かれるというのは、本当にすばらしいことです。主の御業の大きさを思います。


       関連礼拝メッセージ: 2012年4月29日 「満腹する人生」

マルコ 6章45〜52節     2012年5月25日

しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。(50〜51)

 荒野の給食の奇跡は、群衆に荒野でマナを降らせ、民を養い導いたモーセの姿を思い起こさせ、群衆は熱狂したはずです。けれども、主は群衆を解散させ、弟子たちを先に舟で向こう岸に出発させ、ご自身は山に退いて祈られたのでした。主イエスはどうしてもここで一人になって祈りたいと願われたのでしょう。
 舟で向こう岸に向かっていた弟子たちは、真夜中、ガリラヤ湖の真ん中で逆風に悩まされていました。しかし、夜明けの四時頃に、主イエスは水の上を歩いて彼らに近づかれたのでした。弟子たちは、「幽霊だ」と叫びます。弟子たちは主イエスにお会いしたかったはずです。主イエスがいて下さったらと思ったはずです。でも、彼らはここに主イエスがおられるはずはないと確信していたのです。
 主は、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」とおっしゃいました。「わたしだ」とおっしゃる方がいてくださるのは本当にさいわいなことです。


       関連礼拝メッセージ: 2012年5月27日 「しっかりするのだ、わたしである」

マルコ 6章53〜56節     2012年5月26日

そしてさわった者は皆いやされた。(56)

 主イエスと弟子たちが帰って来られたというニュースはあっという間にその地方に広がりました。そして、人々は病人をイエスのところに連れてきました。主イエスは、病気の人々を次々に癒してくださいました。主イエスが癒すことのできない人はいませんでした。
 主イエスの時代、医学も発達していなかったでしょうし、病気になると怪しい民間医療や祈祷師に頼るしかないというのが現実だったと考えられます。病気の癒しは主イエスがこの世に来られた第一の目的ではありません。だから、主イエスはその癒しの力を宣伝材料に使うことはなさいませんでした。かえって、誰にも言わないようにとしばしば堅く口止めされたほどです。主イエスは体の病よりももっと大きな問題があることを知っておられました。けれども同時に主イエスは体の病に悩む人の苦しみをも分かってくださったのです。
 主イエスのこの癒しの奇跡は、もう一つのとても大切な意味がありました。それは旧約聖書に書かれている救い主メシヤのしるしだったのです。


       関連礼拝メッセージ: 


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