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Tコリント 1章1〜3節 2013年11月3日 |
コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。(2) さて、今日からコリント人への手紙を学びます。パウロは第二次伝道旅行中にコリントの町を訪ね、主の励ましと約束を与えられてそこで伝道して、そこに主を信じる者たちの群ができていました(使徒十八9〜10)。しかし、三回目の伝道旅行中、パウロがエペソで伝道していた時、パウロのもとに、コリントの教会で非常に多くの問題が起きているという報告が届き、また同時にコリントの教会からの質問状も届いたのでした。パウロは非常に大きな心の痛みと、危機感を感じながらこの手紙を書いています。
コリントの教会は非常に深刻な混乱と倫理的な問題を抱えていました。けれどもそのような教会にパウロは「キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがた」と言います。確かに多くの問題がある・・・・でも、「聖徒」だ。そこには「キリストにあがなわれ、キリストのものとされた人々」という意味があるのです。
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Tコリント 1章4〜9節 2013年11月4日 |
主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。(8) すぐにコリント教会の抱えている問題が明らかになっていくのですが、パウロはまず、神の恵みを思い、真実でいてくださる神のゆえに感謝を献げます。そして、またこの最初の部分で、自分たちが神との交わりに生きる者として召されたということ、また主イエスの再臨を待ち望みつついることを再確認します。それはまさに、キリスト者のきよい歩みの基盤となるものなのです。
けれども、パウロは、だからしっかりするようにと語るのではありません。そのような恵みの中に入れられた私たちが、その恵みに生き続けるために、まさに神ご自身が働いてくださるのです。私たちを最後まで堅く支えてくださるのは神です。また主イエスの再臨の時に、主の御前に責められるところのない者として喜びのうちに立たせてくださるのも神なのです。だからこそ私たちは、この真実な主に寄り頼み、喜びをもって、主が備えてくださっている再臨の日、救いの完成の日を待ち望むのです。
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Tコリント 1章10〜17節 2013年11月5日 |
さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。(10) さてパウロは早速本題に入っていきます。「クロエの家の者たち」からパウロの所にコリント教会の抱えている状況・問題について報告があったのです。それはコリントの教会のうちに分裂があるという知らせでした。パウロ派、アポロ派、ケパ(ペテロ)派、キリスト派というように、いくつかのグループができて、争っている。名前を利用され、担ぎ上げられたパウロたちはびっくりだったことでしょう。今と違って、テレビもインターネットもない時代です。名前を上げられた人たちが誰かを扇動したということではなく、まさに自分の主張を通すために利用されたに過ぎません。
パウロはここで、同じ心、同じ思いで歩むようにと勧めています。確かに教会に集うお互いは様々な違いを持っています。考え方やこだわりも違うでしょう。しかし、お互いの違いを、信仰の問題と結びつけてしまうことには注意が必要です。私たちは主イエス・キリストにあって一つだからです。
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Tコリント 1章18〜25節 2013年11月6日 |
しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、・・・召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。(23〜24)
パウロは伝道旅行で各地を周りながら決して自分のシンパを作ろうとしていたのではありませんし、そのことによって教会のリーダーシップを握ろうとしていたのでもありません。パウロは自分の知恵や力、また与えられている特別な賜物を自分のために利用しようとはしませんでした。パウロはどこまでも十字架につけられたキリストにこだわっていました。パウロは伝道旅行で各地を訪ねながら、十字架につけられたイエスが救い主だというメッセージがユダヤ人たちにはつまづきであり、またギリシャ人たちには非常に愚かに思えることであることを知っていました。実際、パウロ自身も主イエスと出会う前はそのように考えていたことでしょう。
しかし、パウロはこの十字架の言こそが、私たちを救いに導く神の力であることを知っていました。どんな知恵の言葉やどんなに人を驚かすような奇跡にまさって、十字架につけられたキリストのメッセージにこそ力があるのです。
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Tコリント 1章26〜31節 2013年11月7日 |
神は、・・・この世の愚かな者を選び、・・・この世の弱い者を選び、・・・この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。(27〜28) 私たちは自分を誇ることはできません。パウロは、「パウロだ」「アポロだ」「ケパだ」と言っている人たちの中に、他者を退け、自分の賢明さを誇るような心のありさまを見てとっているのでしょう。
私たちは自分のうちに何の誇るべきものもありません。私たちは知恵も、権力も、身分もありません。弱く、無力で、この世で軽んじられているかもしれません。確かに主イエスの弟子たちは漁師、取税人、右翼の活動家などで、いわゆる有名校を出たエリートたちというよりも「無学のただの人たち」でした。私たちがたとい知恵があり、何かができたとしても、それが一体なんでしょうか。パウロは、神は「無きに等しい者をあえて選ばれた」と言います。「無きに等しい者」とまで言われると、私たちは少々ムッとします。そこまで言わなくても・・・と思います。しかし、まさに自分がそのような者だということを知る時に、神の恵みが分かるようになり、主を誇る者とされていくのです。
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