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ピリピ 1章1〜8節 2014年4月5日 |
そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。(6) ピリピ人への手紙に入ります。ピリピはマケドニヤ第一の都市で、パウロは第二次伝道旅行でこの町を訪ねました。そして、その時にピリピ教会の基礎となる人々が導かれて行きました。この教会はパウロのアカヤ(ギリシャ)伝道を経済的にも支えたと言われています。パウロはエペソ教会に手紙を書いたのとほぼ同じ時期に、ローマの獄中からこの手紙を書いています。
パウロはピリピの人々を愛していました。そしてピリピ教会の人々のことを思うといつも喜びと感謝に溢れてくる・・・まさにピリピ教会はそのような教会でした。もちろん、問題がなかったわけではありません。しかし、パウロはピリピ教会の中に良いわざを始めてくださった主が、必ずそれを完成してくださると信じていたのです。
パウロが拘束されている中で、一世紀の異邦人教会は時に大きな不安を感じることがあったはずです。しかし、パウロは、共に恵みにあずかる者としてピリピ教会の人々のことを心にとめつつ、祈りをもってこの手紙を書き、彼らを励ましたのです。
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ピリピ 1章9〜11節 2014年4月6日 |
わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、(9〜10) パウロはこの手紙の最初の挨拶部分を締めくくるにあたってピリピ教会の人々のために彼がいつも祈っている祈りの言葉を書きます。パウロはピリピ教会の人々の愛が増し加わるようにと祈っています。愛とは単なるフィーリングではありません。深い知識や鋭い感覚を伴うべきものです。愛は本物を見抜いていきます。愛は単に盲目的に従って行くということではありません。愛は、真実であり、また正しいものです。愛には打算や下心、また不品行や不道徳は似合いません。そして愛は豊かな実を結んでいきます。そして最後に、愛は神に栄光とほまれをお返しするところにつながります。自分がほめられ、賞賛を浴びて得意になるのは愛ではありません。
パウロはピリピの人々が愛に満ちた人々であることを知っています。実際、彼らは幾度となく、パウロに献金を送って、彼の働きをサポートしてくれました。ピリピの人々が主を愛し、自分を愛し、今も心配してくれているのをパウロは知っています。それだけにその愛がさらに豊かなものになるようにと祈るのです。
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ピリピ 1章12〜17節 2014年4月7日 |
さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。 (10) パウロがエルサレムで拘束され、カイザリヤで長く留置された上、囚人としてローマに送られたということは、パウロ自身ある程度覚悟していたことでしたし、異邦人教会の人々もパウロの身に危険があることを理解して祈っていたので予測できたことだったとは思います。ただ同時に、福音のために走り続けてきたパウロが自由を奪われているということは生まれたばかりの異邦人教会にとって、大きな損失であるようにも思えます。
しかし、パウロは自分が獄中にあるということがかえって福音の前進に役立っていると言います。それは、パウロを通してローマの兵隊たちが主イエスの福音を聞くようになったこと、またパウロが拘束されたことによって、今まで伝道はパウロにまかせておこうという姿勢でいた人たちが自分たちが福音を伝えないといけないと立ち上がったこと、そして、皮肉にもパウロと張り合っている人たちが今のうちにと福音を伝えているということ・・・パウロは誰が主導権を握ってもかまわないのです。パウロの関心事は福音が伝わっているかどうかということだったからです。
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ピリピ 1章18〜20節 2014年4月8日 |
そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、・・・生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。(20) パウロの関心事は、教会の中で自分がどれだけリーダーシップや権力を握ることができるかということではありません。そんなことはパウロにとってはどうでもよいことでした。パウロが何よりも願い、関心を持っていたのはキリストが伝えられているかどうかということでした。
パウロはローマの獄中にありながら、このまま自分が死んだら・・・ということも考えることがあったはずです。しかし、パウロにとっては自分が肉体的に生きるか死ぬかということはあまり大きな事ではありませんでした。生きているとしてもキリストがあがめられなかったら何にもならないし、死んだとしてもキリストがあがめられるならそれでよかったのです。
そしてパウロにとって獄中にいたとしても、何よりの願いは大胆に主イエスの救いを証ししていくということでした。自分が主イエスを宣べ伝えることによって、キリストがあがめられるのだとパウロは言うのです。
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ピリピ 1章21〜26節 2014年4月9日 |
わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいること・・・しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。 (23〜24) パウロは生きることと死ぬこととを天秤にかけるようにして考えています。パウロにはこの地上の生に対する執着はありません。この地上の生涯が終わるとき、自分はこの世を去ってキリストと共にいることをパウロは知っていたからです。パウロは実際、「その方がはるかに望ましい」と言います。
ただ同時に、パウロはピリピ教会のことや各地の異邦人教会のことを思います。ピリピ教会はこの手紙を書いている時点で、まだ生まれて十年足らずの若い教会です。教会の指導的な立場に立っている人たちでさえ、信仰的には若く、多くの未熟さを抱えています。また、パウロはなおまだ訪ねたことがない多くの町々があり、主イエスの福音を聞いたことのない多くの人たちがいることも知っています。その意味では、パウロは、もし許されるならなおこの地上での働きを続けていたいという願いを持っています。いずれにしてもパウロはキリストのこと、教会のことを考えていたのでした。
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ピリピ 1章27〜30節 2014年4月10日 |
ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。(27) パウロの喜びであったピリピ教会の人々に対して、パウロはキリストの福音にふさわしく生活するようにと勧めます。信仰はまさに決断であると共に生活です。日々との歩みの中で積み上げられていくべきものです。私たちは私たちのために十字架で死んでくださった主イエスのことを思い、このお方の御前に、すばらしい恵み・救いを与えられた者にふさわしい歩みをしていくのです。 ここでパウロが「キリストの福音にふさわしい生活」と言ったのはどのようなことなのでしょうか。第一にそれは、一つの霊・一つの心で力を合わせて福音のために戦うということです。信仰は個人プレーではありません。兄弟姉妹と共に信仰の歩みをしていくのです。
第二にここでパウロが語るのは「キリストのために苦しむ」ということです。私たちが主の救いにあずかり、またその恵みの豊かさを知る時、単に「信じたら良いことがありますよ」というだけではなく、神は私たちを信頼してキリストのために苦しむということにも共にあずからせてくださるのです。
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