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ヤコブ 1章1〜4節     2014年9月10日

信仰がためされることによって、忍耐が生み出される(3)

 今日からヤコブ書を読みます。ヤコブは主イエスの弟であり、ヨセフとマリヤの間に生まれた子でした。主イエスを文字通り兄として共に生活し、慕っていたヤコブにとって、主イエスが家を出て公生涯に入って行かれた時、なかなか主イエスを理解することができませんでした。時には主イエスは悪霊の頭に取り憑かれているという批判に、主イエスを連れ戻しに行ったほどです。
 しかし、後には自分の兄イエスを主イエスとして受け入れ、やがてエルサレムの教会のリーダーとして、特にユダヤ人キリスト者たちをまとめていくとても大切な存在になっていきます。
 このところで、ヤコブは試練の中に置かれたときは、それを喜ばしいことと思うようにと言います。試練の中にあって私たちの信仰が試されます。つまり、ヤコブは平穏無事な時だけにだけ信じるのではなく、試練の時にも信仰をもって生きるようにと求めているのです。そのことによて忍耐が生み出され、その忍耐を働かせることによって、私たちは神の願っておられるような姿へと造り上げられていくからです。

ヤコブ 1章5〜8節     2014年9月11日

あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。(5)

 様々な困難など、現実の歩みの中で私たちはどのように信仰者として生きていくのか、信仰を持って生きるとはどういうことなのか、私たちは判断に迷うことがあります。私たちには神の知恵が必要です。ヤコブはそんな時には神に願い求めるようにと言います。神は「とがめもせずに惜しみなく」豊かにその知恵を与えて下さるお方です。またここには「すべての人に」とあります。「あの人は神様のお気に入りだから答えられるけれども、私の祈りは聞かれない」と言わないでください。神はすべての人に、私の祈りにも答えてくださいます。神はまさに、私たちが求めて、知恵を得ることを、私たちのためにも願っておられるからです。
 ただここでまた「疑わないで、信仰をもって」求めるようにと言われます。与えるとおっしゃる神に信頼して求めるお互いでありたいと思います。

ヤコブ 1章9〜11節     2014年9月12日

たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅なかばで没落するであろう。(11)

 教会の中には身分の低い者・貧しい人々もいましたし、また身分が高く多くの財産をもっている人々もいたことでしょう。ここでヤコブは身分の低い者たちに、自分が高くされたことを喜ぶようにと語ります。どんなにこの地上での身分が低かったとしても、天地を造られた神を父と呼び、このお方の愛の中に生きる者とされたということは大きな富であり、喜びであるはずです。
 またヤコブは富んでいる人々には、自分が低くされたことを喜ぶようにと言います。富んでいる人の下には多くの人々が集まり、上手に御世辞を言って取り入ろうとすることでしょう。しかし、教会では経済的に豊かであるからということで発言力が大きくなるということはありません。どんなに富んでいる人も主の前にひとりのしもべとして生きていきます。
 実は豊かでも貧しくても、私たちは容易に富に支配されてしまいます。ですから、ヤコブは読者に富が過ぎ去るものであることを思い起こさせようとしているのです。

ヤコブ 1章12〜16節     2014年9月13日

試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。(12)

 ヤコブ書の読み手たちは様々な試練の中に置かれ、また誘惑の中を通らなければならなかったのでしょう。私たちは試練を耐え忍び、また誘惑に打ち勝っていかなければなりません。神は忍び通す者たちに、いのちの冠を与えてくださいます。しかし、私たちは本当に試練の中にあって信仰を守り通すことができるのでしょうか。私たちは不安を感じます。もちろん、自分は大丈夫と自分を過信するのは問題ですが、同時に、私たちを愛し、守り、いのちの冠を約束してくださっている神に信頼することが大事です。サタンは、私たちにその神への信頼を失わせようとしているからです。
 神は私たちを誘惑し、私たちを罪に誘うような方ではありません。私たちが誘惑に陥るのは、私たちの中にある欲が、罪の楽しみに惹き付けられるからです。しかし、その楽しみは私たちを死に導くものであることを忘れてはなりません。

ヤコブ 1章17〜18節     2014年9月14日

あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。(17)

 神は私たちを誘惑し、死に至らせようとするような方ではありません。神はいつも私たちによいものをくださいます。神はいつも変わることはありませんし、また神には何の影もありません。神は光であって、いつも私たちを照らし、神の御旨の中を導いてくださるのです。
 私たちがこうして神を信じる者とされたのは、神の恵みによる御業です。神はその御旨の中で、私たちをその真理の御言によって生み出してくださいました。しかし、私たちは初穂に過ぎません。初穂は、それに続く豊かな収穫を期待させます。私たちが初穂として救われたということは、私たちにこれから起こってくる豊かな収穫の時を期待させるものなのです。私たちに続いて、また私たちが主の御旨に生きることによって、さらに多くの人々を主の救いにあずからせようとして、神は今日も私たちに良い贈り物、完全な賜物を与え続けてくださるのです。

ヤコブ 1章19〜25節     2014年9月15日

だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。そして、御言を行う人になりなさい。(21〜22)

 ヤコブは「聞くに早く、語るに遅く」と言います。私たちは自分が多く語り、人には聞かせたいものです。しかし、私たちは思ったことをすぐに口にして失敗することが多くあります。まず聞くことです。また、「怒るにも遅く」です。私たちは正義感に燃えて人を批判し断罪します。しかし、時に早とちりや思い違いということもあります。私たちは審判者でも裁き主でもありません。
 私たちがまずすることは人を裁くことではなく、神が自分の心に語ってくださる聖書の御言を聞くことです。それを心で受け入れ、受け入れた御言に従うのです。聖書は私たちの姿を映し、また自分たちがどのように歩むべきかいのちの道を示します。聖書を読んで読みっぱなしなのは鏡を見ても何も身だしなみを整えないで出て行く人のようです。神の御旨からずれている自分を示され、罪を知ったら、悔い改めて新しい生き方を始めることです。具体的に従うことを示されたら従うことです。聞いた御言に従う人は、その行いによって祝福されるのです。

ヤコブ 1章26〜27節     2014年9月16日

父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。(27)

 信心深いと自認しながら、人の悪口・陰口を言ってばかりいたり、愛のない批判ばかりを口にしていたら、その信心はあまり意味のあるものとは言えません。それは清くけがれのない信心とは言えないのです。信じる心がその人の行動になり、生き方になり、性格になるところまで、信心が深まっていかなければなりません。
 本当の信心は、この世の汚れとは一線を画すものです。汚れや罪から離れ、弱い立場にある人や困っている人たちに具体的に助けの手を差し伸べていきます。求められていることはその人、その人で違っていることでしょう。あなたにしかできないこと、神があなたに託しておられることを誰が見ていても見ていなくても、誠実に行っていく・・・まさに信心とは非常に具体的な私たちの歩みと直接関わってくるものです。行いや自分の真面目さ・努力によって救われると言っているのではありません。信心は心の中だけの問題ではない、ということなのです。



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