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ヨハネ黙示録 1章1〜3節 2014年11月16日 |
この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。(3)
さて新約聖書も最後の黙示録に入ります。黙示録は単に新約聖書の終わりに来て、新約聖書を締めくくるというだけでなく、旧約聖書も含めた聖書全体を完成する書でもあります。イエス・キリスの黙示。「黙示」とは「ふたをとる・覆いを取り去る・明らかにする」という意味の語がもとになっています。この黙示録は、神によって明らかにされ、キリストによってヨハネに伝えられたメッセージでした。そして、これをヨハネはこの黙示録を書き送ることによって初代教会の人々に伝えたのです。
また、これは「預言の書」と言われています。聖書においては「預言」とは、必ずしも、未来に起こることを「予言」することではなく、神が語られたメッセージを聞いて人々に語るということでした。ヨハネはこの黙示録を朗読するようにと勧めます。この当時は印刷技術はありませんでしたから、手書きで書き写したものを誰かが朗読するしかありませんでした。それを聞いて、守ることが大切です。聞くだけで終わってはならないのです。
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ヨハネ黙示録 1章4〜6節 2014年11月17日 |
わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに・・・(5〜6)
この手紙を書いたのは主イエスの十二弟子のひとりのヨハネです。この手紙が書かれたのは一世紀末、教会は多くの迫害を経験していました。そのような中にあったキリスト者たちにとって、この黙示録は大きな励ましになったことでしょう。この手紙の受取人は、アジアにある七つの教会です。この七つの教会の名前は、11節に出てきます。そして、二〜三章にはそれぞれの教会に対する個別のメッセージも語られています。ヨハネ自身もこの小アジアの中心的な町エペソで長く伝道したと言われています。おそらくこれらの七つの教会の事情をヨハネはよく知っていたでしょうし、またいつも祈りの中に覚えていたことでしょう。
主イエスは、私たちを愛し、私たちをその血をもって罪の中から解放し、御国の民としてくださいました。それは私たちが祭司となって、神の前にとりなし、また神のみ言葉を人々に伝えるためです。そして、私たちはこの方の恵みによって生かされ、神をあがめるのです。
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ヨハネ黙示録 1章7〜8節 2014年11月18日 |
今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。(8)
私たちは、主イエスの再臨を待ち望んでいます。主イエスは雲に乗ってもう一度帰って来られます。主を信じる者たちも、また主を信じない者たちも、主イエスが再臨されるときにはこの方のお姿を仰ぎます。主イエスを信じる者たちは喜びをもって、そして、信じなかった者たちは嘆きをもってこのお方を迎えるのです。
この主イエスを私たちに与えてくださった神は、今も生きておられるお方です。そしてこのお方はこの世の初めからおられました。この方によって世界は創造されたのです。そして、この方はイスラエルの歩みを導き、教会の歩みを導いてこられました。そしてこのお方はやがて世界を全く支配してくださいます。この方は全能者であり、私たちの救い主なるお方です。アルパとはギリシャ語のアルファベットの最初の文字、オメガは最後の文字です。つまりこの方は最初であり、最後なるお方、物事を始め、完成してくださる方なのです。
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ヨハネ黙示録 1章9〜16節 2014年11月19日 |
あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。(9)
ヨハネはこの黙示録の受け取り手たちに、自分はあなたがたと「共に苦難と御国と忍耐とにあずかっている」と言いました。御国にあずかるのはうれしいことですが、同時に苦難にあい、忍耐を強いられている・・・それがこのこの手紙の読み手たちの置かれていた状況でした。ヨハネも同じでした。彼はその信仰のゆえにパトモス島に島流しになっていました。
主の日のことでした。「主の日」とは、主イエスの復活の朝を記念して、キリスト者たちが集まっていた日曜日のことです。ある日曜日にヨハネは御霊の臨在を感じます。後ろの方から声がして、ヨハネは振り向きます。その時、ヨハネは自分の後ろに立っておられる栄光の主のみ姿に触れたのでした。どんなに教会が激しい迫害の中に置かれ、また、まるで宣教の働きが大きく制約されているかのように思われる、そのような状況の下にあっても、主は栄光の主として、私たちのそばに立っておられるのです。
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ヨハネ黙示録 1章17〜20節 2014年11月20日 |
恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。(17〜18)
イスラエルの人々は、罪深い自分たちが、神を見たら死ぬと考えていました。まさにヨハネは、自分の後ろに立って、自分に語りかけられた主の栄光に触れて、倒れ伏し、死人のようになります。しかし、その方は、ヨハネの上に、右手を置いて、「恐れるな」と語られます。それは、ヨハネが若い日に共に歩み、親しく聞いた主のお姿とは違うものだったのでしょう。二千年前に主が来られた時には、主は弱さの中に身を置いて、貧しい姿を取ってくださいました。しかし、主イエスは、初めであり、終わりであり、生きている者、死と黄泉の鍵を持って、やがての再臨の日に、すべての死者をよみがえらせる力のある方、裁き主なるお方です。
この方が今も、この地上の戦いの中にある教会の間を歩まれます。二章以下でこの受け手の七つの教会の状況が明らかになります。決してほめられる教会ばかりではありません。しかし、その主は、その教会の歩みを導かれるのです。
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