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コロサイ 1章1〜8節     2014年5月2日

そして、この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのである。(6)

 ローマの獄中にいたパウロはエペソ人への手紙やピリピ人への手紙を書いた時期にこの手紙を書きました。そしてテキコに託して、この手紙をコロサイのキリスト者たちに届けます。テキコはエペソを通って、コロサイにも手紙を届けたのでしょう(エペソ六21、コロサイ四7)。コロサイ教会はパウロが開拓した教会ではなく、そこに最初に福音を伝えたのはエパフラスでした。そして、このエパフラスはこの時、パウロと一緒にローマにいました(四12)。パウロはエパフラスからコロサイ教会について多くのことを聞いたのでしょう。パウロはコロサイ教会にもピレモンのような知り合いがいますが、実際にパウロがコロサイの町を訪ねたことがあったかどうかは不明です。
 しかし、パウロはコロサイ教会のために祈り、この手紙を書きます。パウロは、コロサイの人たちが、キリストの忠実な奉仕者エパフラスから聞いた福音が今も実を結んで成長している・・・福音とはまさに実を結び成長していくものなのです。 

コロサイ 1章9〜14節     2014年5月3日

あなたがたのために祈り求めているのは、・・・神の御旨を深く知り、主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。(9〜10)

 パウロはコロサイ教会の人たちのために何を祈っていたでしょうか。罪の中から御子の贖いによって救い出されたコロサイの人々が神の御旨を深く知ることができるようにということでした。私たちはどれだけ神の御心を知っているでしょうか。神の御旨を知るためには、霊的な知恵と理解力が必要です。
 そして神の御旨を知ったら、その御心にかなった生活をしていくことです。神が願っておられることを知っているというところでとどまってはなりません。そのようにして、神の願っておられる生活を続けていると、まずます神を深く知るようになります。単に本を読んで勉強していると神が分かってくるということではないのです。
 そして神を知っていくと、様々な迫害や困難の中にあっても力強く歩んでいくことができる者とされていくのです。神は救われた私たちがそのような力強い歩みをしていくことを願っておられます。

コロサイ 1章15〜20節     2014年5月4日

神は・・・御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。(19〜20)

 三つの人格をもった一人の神ということを人の言葉で表現することはとても難しいことです。私たちは神を見ることはできません。神は霊であり、目で見ることはできないのです。しかし、神はそのひとり子、御子イエスを送ってくださいました。このお方は目で見ることのできない神を、私たちに見せてくださいました。私たちは主イエスを見つめているときに、神がどのようなお方であるかが分かってくるのです。
 しかし、この御子は父なる神の次に偉い神だというわけではありません。父・子・聖霊の間には優劣はないのです。ここでパウロは注意深く言葉を選んでいます。御子イエスは父に「創造された」被造物ではなく、父から「生まれた」お方です。そしてこの御子はすべてのものの創造者なのです。
 そして、この御子イエスは、その十字架の血によって平和をつくり、万物をご自身と和解させてくださったのです。

コロサイ 1章21〜23節     2014年5月5日

ただし、あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。 (23)

 コロサイの人々も以前は主を知らず、罪の中を歩んでいました。神から離れ、神に敵対して歩んでいました。神に敵対して歩んでいる者に用意されているのは滅びです。当然、神に裁かれ、滅びるべき者でした。しかし、御子がその罪を負って死んでくださったことによって、まさに、その御子のからだによって、私たちの裁かれるべき罪はすでに裁かれてしまいました。驚くべきことが起こりました。あれだけ罪を犯し、神から遠く歩んでいた私たちに神との和解が与えられたのです。私たちは聖なる、傷のない、責められるところのない者として御前に立つことを許されました。
 これが福音です。しかし、単に過去のある時点でその信仰に立ったというところで終わってはなりません。私たちはその信仰に踏みとどまり続けるべきです。福音の本筋から私たちを引き離し、まがいものの方に引っ張っていこうとする力もまた働いているからです。

コロサイ 1章24〜29節     2014年5月6日

この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。(27)

 パウロは苦難の中にあってこの手紙を書いています。彼はローマの獄中にいました。彼は単に精神的・霊的な苦しみというばかりでなく、具体的に肉体的な苦しみも経験していたのでしょう。パウロは自分の経験している苦しみを「キリストの苦しみのなお足りないところ」を自分の体をもって補っていると言います。それは、十字架の苦しみが不十分なので、自分も苦難を負うことによって救いに至るというのではありません。パウロは自分の苦しみが主イエスの苦しみにつながっていることを知っていたのです。
 パウロはどんなに苦しんでもこの神の言を伝えないわけにはいきませんでした。パウロが命がけで伝えていたのは今までずっと隠されていたがいまや明らかにされた奥義でした。それは、まさにキリストを指し示すものであり、このキリストが私たちのうちにいてくださるということです。そしてパウロにとってはまさに自分のうちにいてくださるキリストが力強く働いてくださる中で、自分に与えられた使命に生きようとしていたのです。


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