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使徒行伝 18章1〜4節     2013年7月6日

その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。そこで、アクラというポント生れのユダヤ人と、その妻プリスキラとに出会った。(1〜2) 

 パウロはベレヤで伝道チームと別れてまだひとりです。しかし、アテネからコリントの町に移った時、パウロはその町でアクラとプリスキラという夫婦に出会います。彼らはつい最近イタリヤからギリシャのコリントに移り住むようになっていたのです。パウロは彼らの家に住み込んで、仕事をしながら、安息日毎に人々に福音を語っていったのでした。
 パウロがアテネからコリントに行った時、パウロの中には不安や恐れがあったようです(Tコリント二3)。聖書学者たちは、アテネで知性に訴えるような説教をしたけれども失敗に終わったことが尾を引いていたのではないかとも言います。しかし、そんな中で、神はパウロのために生涯の信仰の友ともなる夫婦との出会いを与えて下さったのでした。この聖書の箇所ではアクラの名前が先に挙げられていますが、この後はプリスキラの名前の方が先に挙げられることが多くなります。彼女が教会の中で積極的に大きな働きしたことが想像できます。

使徒行伝 18章5〜11節     2013年7月7日

恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる。(9〜10)

 パウロが待っていたシラスとテモテがマケドニヤから下って来ました。その後、パウロが「御言を伝えることに専念し」たとあることから、シラスとテモテはマケドニヤ地方の信者の群からの献金を持ってきたのかもしれないと言います。
 最初パウロはコリントでも、ユダヤ人たちに対して福音を語っていましたが、根強い反対が続く中で、異邦人に対する働きかけにシフトしていきます。そして多くのコリント人たちが主を信じていったのでした。
 パウロの中にいろいろな恐れがあったのは事実でしょう。何度もユダヤ人たちに襲われる中で、死を覚悟することさえあったかもしれません。しかし、パウロは夜の幻のうちに、主の声を聞きます。「恐れるな、語り続けよ」「わたしがついている」「この町にはわたしの民が大勢いる」。パウロはその町に一年半腰を落ち着けて伝道したのでした。 

使徒行伝 18章12〜17節     2013年7月8日

そこで、みんなの者は、会堂司ソステネを引き捕え、法廷の前で打ちたたいた。ガリオはそれに対して、そ知らぬ顔をしていた。(17)

 一つの町に一年半とどまって伝道するというのは、パウロにとってはとても珍しいことです。それは一年半大きな騒動もなく守られたということでもありました。
 しかし、ついに別れの時が訪れます。ユダヤ人たちはパウロを襲い、法廷に引っ張っていって訴えたのでした。その地方の総督であったガリオはユダヤ人たちの訴えを相手にしません。つまり律法の解釈に関するような騒動には巻き込まれたくない、ということだったのでしょう。
 相手にしてもらえない、と分かったユダヤ人たちは一部暴徒化し、会堂司ソステネを捕らえて法廷の前で打ちたたきます。ガリオは見て見ぬふりをしていました。ソステネがなぜ、このような目にあわされることになったのかは分かりません。少なくとも、彼はパウロたちの協力者と見られた、ということでしょう。Tコリント一1を見ると、後にこのソステネがコリントの町を離れてパウロと一緒に旅をしているのを見ます。パウロと出会い、主イエスと出会ったことは、彼の生涯を大きく変えたのです。

使徒行伝 18章18〜23節     2013年7月9日

人々は、パウロにもっと長いあいだ滞在するように願ったが、彼は聞きいれないで、「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰ってこよう」と言って、別れを告げ、エペソから船出した。(20〜21)

 パウロは長い期間とどまって宣教にあたったコリントの町をついに出立します。孤独感と無力感の中で始まったコリントの宣教でしたが、今度はプリスキラとアクラも一緒です。パウロがどのような誓願をかけていたのかは分かりません。神の前に立ち、神の語りかけを聞きながらパウロの中に何か期するところがあったのでしょう。
 その立ち寄ったエペソでユダヤ人たちと論じ、引き留められたのですが、その時にはエルサレムへの旅路を急ぎます。この時とどまることは神の御心ではないと判断したのでしょう。しかし同時に、パウロはやがてエペソの町でも時間をかけて伝道したいという思いが与えられていたことだろうと思います。パウロはそこにプリスキラとアクラを残します。
 パウロは、エルサレムに立ち寄って教会に挨拶し、それからアンテオケに戻ります。ここまでがパウロの第二回伝道旅行です。23節からは第三回伝道旅行が始まることになります。

使徒行伝 18章24〜28節     2013年7月10日

さて、アレキサンデリヤ生れで、聖書に精通し、しかも、雄弁なアポロというユダヤ人が、エペソにきた。(24) 

 パウロがエペソを離れた後、エペソの町にアポロという人物がやって来ます。彼は北アフリカのアレキサンドリヤ出身のユダヤ人でした。アレキサンドリヤはとても栄えた町で、大きな図書館でも有名で、また多くのユダヤ人たちも住んでいたと言われています。
 このアポロはとても雄弁で、また主イエスについて知っていて、とても力強く人々に語っていました。しかし、このアポロの話を聞いていたプリスキラとアクラは、おやおかしいぞ、と思ったのです。「ヨハネのバプテスマ」しか知らなかった、という言い方から分かるのは、主イエスが旧約聖書に約束されている救い主、ということは語っていても、主イエスの十字架とその死による贖い、そして復活については知らなかったようです。
 プリスキラとアクラはこのアポロに主イエスの救いについて語り、またアポロも彼らの話す福音を謙虚に聞いて受け入れたのでした。後に彼はアカヤ(今のギリシャ地方)に行って、その地のクリスチャンたちを励ましていったのでした。


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