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使徒行伝 10章1〜8節 2013年5月29日 |
あなたの祈や施しは神のみ前にとどいて、おぼえられている。(4) ヨッパよりもずっと北の方ですが地中海に面したカイザリヤという町がありました。そこはローマの軍隊が駐屯するような地中海航路の要所でした。そこに配属されたイタリヤ隊という部隊の百人隊長でコルネリオという人がいました。彼はその立場もあったでしょう、割礼を受けて正式にユダヤ教に改宗するということはありませんでしたが、聖書の神を信じ、敬い、家族一同で神に祈り仕えていました。彼の信仰は単なる心の中のものではなく、彼はユダヤ人たちに対して愛を注ぎ、多くの施しをしていました。彼は三時頃、幻のうちに神の使いを見たのですが、それは多くのユダヤ人たちが大切にしていた祈りの時間でした。
神の使いはコルネリオに、あなたの祈りや施しは神の御前に届いて覚えられている、と告げます。コルネリオが具体的にどのような祈りを日々していたかは分かりません。しかし、神は彼の祈りを聞いておられました。私たちの祈りもまた神に聞かれ、覚えられていることを知っていたいと思います。
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使徒行伝 10章9〜16節 2013年5月30日 |
神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない。(15) 神はコルネリオに語りかけると共に、なおヨッパにとどまっていたペテロにも語りかけられました。彼は昼の十二時頃、人々が食事の準備をしている間に屋上に上ってお祈りをしていました。お祈りをしているうちにうとうとして夢を見ます。お腹が空いていたせいもあったでしょうか、食べるものの夢です。天から大きな布が降りてきてその中にいろいろな生きものが入っていました。しかし、そこに入っていたのは旧約聖書の規定によって、食べることを禁じられていた汚れたものばかりでした。しかし天から声がして、それを取って食べるようにと言うのです。ペテロはできない、と言います。しかし、天から語られたのは「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」ということでした。同じ夢を三度見たのは、そこに神の確かな意志が働いている証拠でした。
確かにユダヤ人たちは食べ物だけでなく、あらゆるものをきよいとかきよくないとかレッテルを貼っていました。しかし、清いか清くないかは神が決めるのだ、神が清めてくださるのだというのです。
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使徒行伝 10章17〜23節 2013年5月31日 |
ペテロはなおも幻について、思いめぐらしていると、御霊が言った、「・・・さあ、立って下に降り、ためらわないで、彼らと一緒に出かけるがよい。わたしが彼らをよこしたのである」。(19〜20) ペテロはその幻の意味がすぐには分かりませんでした。けれどもちょうどその時、下にコルネリオの僕たちが到着しました。御霊はペテロに、迷わないでこの人たちと一緒に行くようにと語られました。ユダヤ人たちは異邦人の家には行きませんでした。その家には入りませんでしたし、また一緒に食事をして交わるなどとんでもないことでした。けれども、神がペテロに語り、またわたしが彼らをよこしたのだ、とペテロを押し出されたのです。
確かに旧約聖書の中にはイスラエル人たちに国際結婚を禁じる言葉があります。それは、異邦人が異教の神々・偶像礼拝をイスラエルにもたらす危険が大きかったからです。しかし、神は最初から異邦人にも神の救いが及んでいくという計画をもっておられました。
新しいことをするのには勇気がいります。しかし、神はそんな私たちの背中を押してくださいます。
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使徒行伝 10章24〜33節 2013年6月1日 |
今わたしたちは、主があなたにお告げになったことを残らず伺おうとして、みな神のみ前にまかり出ているのです。(33) ペテロが到着した時、コルネリオはすでに親族や親しい友人たちを集めてペテロを待ちわびていました。そしてペテロの足もとにひれ伏して丁重に彼を迎えるのでした。確かにコルネリオはローマ人で、ペテロはガリラヤの元漁師です。しかしコルネリオはまさに神がつかわされた使者として彼を受け入れたのでした。
ペテロがまず。自分がなぜユダヤ人たちの習慣を破って、そこに来たかを語り、また次に、コルネリオがなぜペテロを招いたかを語りました。お互いに自分たちに語られた神のメッセージを確認しながら、そこに働いておられるのが神ご自身であることを確信したことでしょう。
コルネリオは言います。「主があなたにお告げになったことを残らずうかがおうとして、みな御前にまかり出ているのです」。そのような恐れと待ち望みをもって神に近づくお互いでありたいと思います。
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使徒行伝 10章34〜43節 2013年6月2日 |
神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さる(34〜35) 神が自分にも、またコルネリオにも語りかけて、このことを準備し、起こしてくださったことをペテロは驚きをもって受け止めたことでしょう。そして、またユダヤ人たちと同じように、いや、おそらくそれ以上に真剣な求めをもって神の御言を聞こうと、神の前に出ているコルネリオとそこに集まった人々の姿を見た時に、ペテロは神がこの人々を受け入れ、救おうとしておられるということを思わずにはいられなかったことでしょう。
ペテロはユダヤ人たちに対して語るのと同じように、コルネリオたちの前で語ります。旧約聖書は知っていても、その成就としての主イエスを知らなかった彼らに、主イエスの地上の生涯、その十字架の死、そして死からの復活について大胆に証しをします。そしてこの主イエスこそが生者と死者との審判者だと宣言します。この方の前に誰が罪のない者として立つことができるでしょうか。けれども神の提示して下さった福音は、この十字架・復活の主イエスを信じる者は罪が赦されるということだったのです。
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使徒行伝 10章44〜48節 2013年6月3日 |
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。(44〜45) コルネリオたちはペテロが語った福音を真剣に聞いていました。これまでも彼らはローマやギリシャの神々ではなく、天地を創造された唯一の神こそがまことの神だという信仰をもっていたでしょう。そして旧約聖書にある高い倫理的基準を真剣に守ろうと努力してきたに違いありません。
しかし、ペテロが旧約聖書の成就としての主イエスを指し示して、信じる者には罪の赦しが与えられるというメッセージを届ける中で、彼らは聞きながら、その語られたメッセージに対する心からの信仰が与えられたに違いありません。そして、異邦人であった彼らにもあのペンテコステの日と同じように、特別なしるしを伴う形で聖霊が下ります。
ある意味、ペテロや同行していたユダヤ人たちは、異邦人が信仰をもって救われるということに関して、まだはっきりと理解できていなかったと思われます。しかし、神の方がまず、この人たちは確かに信じて救われたのだという、いわば証印を押されたのです。
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