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使徒行伝 3章1〜10節 2013年4月25日 |
金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。(5) 美しの門とは、エルサレムの神殿の異邦人の庭から婦人の庭に入っていくところにある門で、神を礼拝するユダヤ人たちは男性も女性も皆、そこを通りました。またその門を入ったところにはラッパ型の献金箱がありました。ある意味、人々が財布を出す場所です。物ごいをするにはうってつけのベストポジション・・・そこに年の頃四十歳ほどの男が座っていました。生まれつき足が悪かった、ということですから、そこに座って、もう何十年も変わることなく、人々にお金を乞い続けてきたのでしょう。ある意味、彼は、知る人ぞ知る、という存在だったかもしれません。
ある日の午後三時頃、彼の前をヨハネとペテロが通ります。そして彼に声をかけるのです。「わたしたちを見なさい」「金銀は私たちにはない。しかしわたしにあるものをあげよう」。そして、今まで歩いたことのなかった彼が歩いたり、踊ったりしながら、神を賛美する人に変えられたのです。「わたしにあるもの」とあなたも人々に語ることができるでしょうか。
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使徒行伝 3章11〜16節 2013年4月26日 |
イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。(12) このことはちょっとした騒ぎになります。なにしろ、今まで暗い顔をして物乞いをしていた彼が、明るい顔で喜びに満ちて神を賛美し、歩けなかった彼が踊っているのです。人々は不思議に思い、またまるで不思議なものでも見るように、そこに集まり彼を見つめていました。そして、ペテロたちが彼が歩けるようになったことに関わっていることを知ると、彼らにも驚嘆のまなざしを向けるのでした。けれどもこのことが起こったのは、ペテロたちの力や信心のゆえではありませんでした。ですからペテロは決して自分を誇ることはしません。ペテロたちが彼を歩かせたのではないからです。この男を歩かせたのは主イエスを信じる信仰であり、主イエスによる信仰であったのです。
私たちが神さまのために何かができたとしても、私たちはそれを誇ることはできません。私たちを通して御業をなさるのは、十字架に死に、死を打ち破ってよみがえってくださった主イエスご自身なのです。
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使徒行伝 3章17〜26節 2013年4月27日 |
神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、おつかわしになったのは、あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである。(26) ペテロはそこに集まって来た人たちにさらに話を進めます。ペテロはあらゆる機会をとらえて主イエスを語らずにはいられなかったのです。ペテロは主イエスの十字架の死が旧約聖書の預言の通りであったことを語ります。モーセも、サムエルも、また後の預言者もそのことを語っていました。
主イエスがこの世に来てくださったのは、私たちが罪を悔い改めて神に立ち帰り、アブラハムに約束されていた神の祝福にあずかり、その祝福を受け継ぐためだったのです。
ですからペテロは集まって人々に悔い改めて本心に立ち帰るようにと勧めます。あの放蕩息子がボロボロになった時に、自分の今の姿はおかしい、本来の自分の姿ではない、と気づいたように、私たちもまた本来あるべきところに帰るのです。その時に、神は私たちの罪をぬぐいさってくださるからです。
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