その方を拝みに マタイ 2章1〜12節
ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。
わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました。(2)
クリスマスに一番大切なことは、私たちのためにこの世に来てくださった主イエスを迎え、心から礼拝する事です。では礼拝するとはどういうことでしょうか。
1 礼拝とは当然の義務・・・ひれ伏す私
礼拝は人間として神に造られた者として当然のことです。私たちが神を知ったら、そのお方の前になすべき事は何か、それは礼拝です。私たちが天国に行く時、そこで、私たちは愛する主にお会いし、主を礼拝します。そこで、私たちはこの博士たちがしたようにひれ伏すのです。
ヘロデ大王も「拝みに行くから」といいました。でも彼が考えていたのは、そんな王さまが来たら殺してしまおう。これはまさに礼拝の逆の態度です。私たちはこのお方の前に自分の冠も誇りも、名誉も地位も投げ捨てて、ひれ伏のです、
2 礼拝とは犠牲を払うこと
礼拝とは私たちが自分にできる精一杯をささげることです。博士たちは時間も使う、お金も使う。そして黄金・乳香・没薬を主イエスの前に献げたのでした。犠牲を伴わない礼拝はありません。しかし、私たちが何かを献げる前に、主が私たちに大きな祝福を与えて下さった、御子イエスさえも与えて下さったのです。
3 礼拝は喜び
礼拝は喜びです。神さまは私たちを愛してくださいました。他の誰でもない、神ご自身が私たちを愛してくださった。こんな小さな罪深い私を救ってくださった。この博士たちもそうです。異邦人の自分たちがこの世界の救い主、王なるお方を礼拝する事を許された。礼拝はまさに義務であると共に恵みなのです。この大きな恵みを神は私たちに与えて下さったのです。
この東の国の博士は遠い国から宇小さな小さなユダヤの国まで旅をしました。ユダヤ人の王がお生まれになった。救い主なる王がお生まれになった。彼らはそれを信じて旅をして来たのです。
王さまらしいという意味では、エルサレムにいるヘロデ王の方がずっと王さまらしい。ベツレヘムで彼らが出会ったのは、田舎の若い夫婦と、どこにでもいそうなかわいい赤ちゃん。でも、彼らはこの主イエスを救い主として礼拝しました。この神さまに、あの二千年前ベツレヘムに生まれて下さった主イエスにこころから喜びをもって礼拝を献げようではありませんか。神はそのことを、このクリスマス、私たちにも期待していてくださるからです。
|