全き者となれ 創世記 17章 1節
わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。(1)
私たちの教会は日本ホーリネス教団といいます。このホーリネス、というのは、きよい、聖なる、ということなのです。ホーリネス、聖なる、とはどういうことなのでしょうか。
1 聖なる神がおられる
これは第一に、聖なる神さまがおられるということです。この「聖なる」とは、私たちをはるかに越えた超越者であるお方、ということです。そのようなお方がいてくださるのです。このお方は世界を創造してくださったお方、私たちをはるかに越えたお方であって、どこまで行っても、私たちと神さまとの間には違いがある。違うお方なのだ。
そしてこの聖なる神と言われる時に、その本質において私たちを超越している、というだけでなく、そのご性質においても私たちを越えておられる、私たちはたくさん曲がったところがあって、ゆがんでいて、汚れているけれども、このお方には何の暗いところも、汚れたものもないのです。
2 全き者への召し
神はアブラハムにおしゃったのです。あなたはわが前に歩みて全き者であれ。神さまは私たちが神さまと出会って、神さまを信じる者とされて、神さまに従って・・・それでOKということではなく、私たちが全き者として生きるようにと願っておられます。
私たちは全き者と聞いて、えーと思います。あまりにもハードルが高すぎるのです。無理です。勘弁してください、と思います。この時のアブラハムもそうでした。実は彼は神さまの御心とは全く違うことをしてしまい、十三年間神さまのとの間に気まずい時を過ごしました。けれども、そんなしょうもないアブラハムに神は全き者となることを期待してくださったのです。
そしてそれは全き者となる、よしなった、というだけでなく、継続的に神さまの前に歩み続けるということです。
3 全能の神の御業による聖化
でも、正直に言って、そんなことが可能なのだろうか。これは努力目標ではなく、神のご命令です。そしてこれは私たちのがんばりで達成するのではありません。神がそのことを私たちの生涯の中に成し遂げてくださるのです。知ってください。だから、ここで神は、私は全能の神だ、とおっしゃるのです。ここで全能の神とは何でもできる、というだけではありません。あなたを救い、あなたをきよい者とするためなら、どんなことでもして下さると言うことなのです。
そして、その神は、私たちのために主イエスをこの世に送って下さいました。そして主イエスがかかってくださった十字架は、単に、私たちが罪赦されて救われるためと言うだけではなく、私たちがきよめられ、全き者として生きることができるようになるためなのです。
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