あるものがあるか 使徒行伝 3章 1〜10節
ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。(6)
ペテロは美しの門のところに置かれていた生まれつき足の不自由な男に言います。「金銀はわたしたちにはない。しかしわたしにあるものをあげよう」。私たちも「私たちにあるもの」「この世にはないけれども、私たちにはあるものを提供していきたいと思います。では、わたしたちにあるもの、とは何でしょうか。
1 主イエスの名による祈り
お金がなくても知恵がなくても何がなくてもわたしにあるもの、それは第一に主イエスの名による祈りです。弟子たちも昔から祈ることは知っていました。けれども、主が天に上げられる前に、約束されたのは、その名前を使って求めてよいということでした。あなたは祈ることができる、私の名によって祈ることができる。そして神は、私たちがその主のお名前によって祈る時に私たちに答えてくださいます。自分に力がなくても、自分のもっているものがどんなに貧しくても何も心配いりません。私たちは、無尽蔵の富をもっておられる神に、主イエスの名をもって祈ることができるのです。
2 私たちと共に働かれる神の力
これまでも、この男の求めに応じて多くの人たちがお金を恵んだことでしょう。しかし、彼はこの後も死ぬまでこじきとして生きていくしかなかった。けれども、ここで「わたしにあるもの」とは全能の神の力です。全能の神はこの男に一時的なその場しのぎの解決ではなく、もっと根本的な解決を与えようとしておられました。だれもできなかったこと、誰も期待していなかったことを神はこの男のためにしてくださったのです。この男の中に主が働いて、今まで一度も立ってあるいたことがなかった彼が歩けるようになったのです。わたしたちの問題が何であったとしても、神はそこに根本的な解決をあたえてくださるお方です。
3 主イエスご自身
この男は歩けるようになりました。でも、歩けてよかったね、と話はそこで終わらない。わたしにあるものをあげよう・・・それは主ご自身です。主は私たちのためにご自身を与えて下さって、罪と死の力から私たちをあがなってくださったのです。
ペテロは言いました。わたしにあるものをあげよう。私たちの周りにも渇きを抱き、弱さの中にただ怒るかあきらめるかという中で生きてる人たちがたくさんいます。しかし、私たちも主イエスの名による祈りを、また主ご自身の全能の力を、また私たちを愛し、あがなってくださった主イエスをもっています。しかし、自分はもっているぞ、というところで終わってはいけません。持っている人は、わたしにあるものをあげようと、それを手渡していくのです。
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