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さいわいな人 マタイ 5章1〜13節
錦織由香師
心の貧しい人たちはさいわいである、天国は彼らのものである。 (3)
神さまの目からご覧になるさいわいな人・神さまに祝福されている人とはどういう人たちなのでしょうか。
心の貧しい人
ここでいう心というのは「霊」とも訳すことができる言葉です。では霊とはなんでしょうか?霊とは神さまと交わる部分のことです。創世記2章の人間の創造の記事に「主なる神は、土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きる者となった」とあります。私たち人間は神さまの命の息、神さまの霊によって生きることができるのです。それは私たちの内から造り出したり、絞り出したりはできないものです。神さまに満たしていただく以外にはないのです。そのことを自覚し、神さまのみ前に「私は霊が空っぽの者、あなたのあわれみがなかったら、あなたから与えていただかなければやっていけない者ですと言い表すことができたなら私たちはさいわいな人に変えていただけるのです。
悲しんでいる人
二番目にさいわいな人は悲しんでいる人だとイエスさまは言われました。私たちは何を悲しむでしょうか。
第一に、私たちの自分自身の罪による悲しみがあります。私たちはイエスさまを信じ、救われたからといって全く罪を犯さないわけではありません。クリスチャンであってもこの世に生きている限り、誘惑に陥ってしまうことがあり得ます。また不信仰という罪もあります。神さまを信じているといいながら神さまを信じきれずに自分の力で乗り切ろうとする。不従順という罪もあります。神さまがこうしなさとおっしゃっているのにそのみ声に従わないことです。しかし、もっと根深い罪がわたしたちにはあります。パウロはローマ人の手紙7:15-20で「私の内に宿っている罪」と言っています。自分では善をしたいと願いながらそれができない、かえってしたくない悪を行ってしまう。私の内に宿っている罪であると。私たちは弱く、罪深い者です。けれどその罪に気づかされ、悔い、悲しんでいる者に神さまは慰めをくださるというのです。イエスさまの救いの御業によってその罪を赦し、罪から解放してくださるのです。
また別の悲しみがあります。それはこの世にあるさまざまな悲しみです。心や体が傷つけられたとき、近しいひととの別れ、また身近なことでなかったとしても日々起こってくる様々な苦難やこの世の不条理を耳にして私たちは悲しみます・・・大切なことはその悲しみをイエスさまの所に持ち出すことです。なぜならイエスさまだけが本当の慰めをくださるからです。
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