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弱き者なれど Iコリント 1章26〜31節
新川代利子師
それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かさ者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。 (28−29)
あなたは、自分はどのような人だと思っていますか。
この世では、体力、精神力、知識、学歴、経験が問われます。しかし、神の選びの基準は、世とは全く逆で、知恵、権力や身分の高い人は多くはありません。私たちがクリスチャンとして生きる時も、世の価値判断は大きな戦いであり誘惑です。知識優先主義では、ある程度の力がないと勝ってはいけません。知恵があると思う人は、誇ります。多くのものを持っている人は、もう少し持ちたいという欲望は尽きず、本当の満足を知りません。豊かな国に生まれ育った人は、あれがあれば、これが達成されれば感謝できる・・・と考えます。
神は、この世で愚かな者、弱い者や軽んじられている者、無きに等しい者をあえて選ばれるのです。神の前には、教育、地位など何の区分はなく、造られたお一人お一人を"尊い宝物"としてこよなく愛しておられます。私たちが力と限界、弱さを認め、神に完全に信頼する時、私たちの中に神の臨在の働きが始まります。神の働きは、人間の理解を超える神秘であると認めざるをえません。人間的に見れば弱く何もできない状況の中で、神はこんな弱い私たちを必要とされるのです。
私たちは、これ程度の知識、学歴がある、これだけの信仰生活や奉仕をしてきた、地域で貢献をしているという思いを持ち易いものです。しかし、神はあえて、ことさら自分を無に等しいと本当に思っている人たちを選ばれます。それは、どんな人間でも、神の御前に誇ることがないためです。
誇り、傲慢は、私たちの生涯にまとわりつく恐ろしい敵で、高慢は、天国の門まで追いかけてきます。この高慢は、神が一番お嫌いになります。
すべての権威と権能をお持ちである、神であられる御方が、無残な何もできない、何の抵抗もできない者として罵られながら、十字架の苦しみを受けて下さいました。それは、すべての人に救いの道を開くためでした。聖書ははっきりと、キリストは神に立てられて、私たちの知恵となられ、義と聖と贖いになられた、と書いています。私たちがこうして今ここにあるのは、主が無になって下さって、しかも十字架の死に至るまでご自身を低くなって、誇ることを完全に閉め出されて、私たちの身代わりとなられたからです。あるがままの姿で、弱くあればあるほど神の恵みをいただくと、神は、私たちを主を誇る者として世に示すために用いて下さいます。
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