本心に立ち帰れ ルカ 15章 11〜24節
そこで彼は本心に立ちかえって言った、「父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰ってこう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました・・・」 (17,18)
放蕩息子はギリギリのところで本心に立ちかえりました。私たちもどこかで本心に立ちかえる、必要があります。では本心に立ちかえるとはどういうことでしょうか。
1 自分にはお父さんがいる
この息子が気づいたのは自分にはお父さんがいるということでした。このお父さん豊かで愛にあふれている。
イエスさまはおっしゃいました。あなたがたの神さまは天のお父さんだ。本当に豊かで力があり、愛に富んでおられる、私のことを全部知っていて、私のことを心配していて下さるお方がいるのです。
2 このままでは死んでしまう
彼は考えた。このままここにいたら、自分は間違いなく死んでしまう。私にはこんなにすばらしい天のお父さんがいて、自分はそのお父さんの息子どもなのに、今、このまま自分の好きな道を進んで行ったら、もしここで後戻りしなかったら確実に自分は滅んでしまう、そのことに気づくのはつらいかもしれません。でももし、そうだったらそれを認めることです。
3 自分が悪かった→資格は無い
人のせいにしようとおもえばそれでもまだ人のせいにできたかもしれない。でも彼は気がつくのです。私が悪かった。私は天に対してもあなたに対しても罪を犯しました・・・彼はあそのことに気づいたのです。
4 自分には帰るところがある
けれどももう一つ、彼が気づいたことがあります。自分はまだ帰れる。私はここで飢えて死のうとしているけれど、一つだけ生きる道がある。それはお父さんのところに帰ることだ。今からでも帰れる、いや帰れるって言うか、帰るしかない。どの面さげて、今さら帰れるかってあるけれど、どんなにどなられたとしても、お父さんにすがって帰るしかない。そして帰ったら自分はきっと生きることができるということなのです。
「悔い改め」という言葉があります。それは懺悔というのともちょっと違う。聖書で言う「悔い改め」は向きを変えて帰るということなのです。
そして帰ってきた息子を父親は走って迎えてくれた。おそらく父親はずっと待っていたのです。知って下さい。神さまもまた、私たちが本心に立ち帰って来ることを待っておられるのです。
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