自分の力や信心ではなく 使徒行伝 3章 11〜16節
そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとうり完全にいやしたのである。 (16)
私たちは美しの門で起こった出来事について学びました。生まれた時から40歳になるまで歩いたことのなかったこの男が、惨めで疲れた顔をして、ただ人々の憐れみにすがって生きていたこの男が、躍り上がって立ち、神を賛美しているのです。人々は「驚き怪しんだ」と聖書は言います。そしてペテロやヨハネのまわりにつきまとっているこの男を見て、人々は皆ひどく驚いてかけ集まって来たのでした。この男を見た人たちは驚きのあまり声も出ません。そして、同時に、この男を立たせた、ペテロとヨハネに対する感嘆の声も上がっていました。しかし、ペテロはそこで得意になったり、鼻を高くして自慢したりしません。神さまは自慢して、自分に栄光を帰してしまうような人には賜物を下さらないのです。ペテロは言います。この男がこうして歩いているのは、自分の力や信心ではない。私たちはちょっとはいいたいのです。私がいたからです。○○さんがいたおかげで、○○さんのお祈りの力です・・・そんな風に言ってもらいたいのです。しかし、ペテロは言います。違う。
1 イエスだ
ここで、ペテロは、この男を歩かせたのは主イエスだと言います。この主イエスは旧約聖書に約束された救い主。このお方は人々に拒まれ、殺されてしまった。しかし、同時に、このお方は死を打ち破ってよみがえってくださった方。この方が、この男を癒し、歩かせて下さったのです。
2 イエスを信じる信仰
次のこのところでペテロはこのお方を信じる信仰がこの男を立ち上がらせたのだ、と言います。主イエスも信仰のないところではご自身の御業を表すことはできませんでした。大切なことは、主が私を立たせてくださる、という信仰に立つ。この主イエスは私を立たせ、歩ませ、躍らせ、恵みの中を歩ませることがおできになる方だと信じることなのです。
3 イエスによる信仰
このところでペテロは同じことをまた少し角度を変えて言い換えています。実は信仰って、私たちの信仰力が問われているのではない。実はこの男を歩かせたのは、イエスによる信仰だ。皆さん、知ってください。私たちの信心や、信仰力が問われているのではありません。信仰のある主イエスご自身が、弱い私たちを支えてくださるのです。まさにこのお方による信仰、このお方のご真実に私たちは生かされていくのです。
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