思い切って大胆に 使徒行伝 4章 23〜31節
主よ、今、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。(29)
弟子たちは集まって祈りました。思い切って大胆に御言を語らせてください。この「大胆に」と言う言葉は「確信をもって」「信頼して」という意味の言葉です。
1 大胆さを失わせるもの
大胆さを失わせてしまうものとは・・・
@恐れ ヨハネやペテロの中にも、また教会にも恐れがあったのは事実でしょう。恐れは私たちをおくびょうにします。
A安定志向(自己満足) 今、見えるものに満足してしまって、さらにもっと向こうにある大きな恵みを受け取ろうとしない・・・。これだけ集まっていたら、それで十分だ。いいえ、私たちは何百人の教会ができたとしてもそれで責任を果たしているとは言えないのです。
B不信仰 神にもできない、やっても無駄だ、伝えてもどうせ人々は信じない・・・あきらめや不信仰は私たちから大胆さを失わせ、おとなしいキリスト者にしていきます。それは神さまよりも自分の挫折や失敗の経験に判断基準を置くのです。すると私たちは、ナザレ人イエスの名によって歩きなさい、と言えなくなってしまう。
C孤独感 孤独感、ああ私は一人ぼっちだという思いは、私たちから大胆さを失わせてしまいます。信仰の友がいること、主イエスの親しい臨在の中に生きることは私たちに勇気を与えるのです。
D罪 続く五章のところでは、聖霊に満たされた教会がまた直面した危機が取りあげられています。私たちの信仰の歩みの中に罪が入り込んでくると、私たちは大胆に語れなくなる。
2 大胆さの回復
彼らは祈り求めます。彼らが求めたのは二つのことです。
一つは僕たちに、御言を大胆に語らせてください、ということです。私たちがあずけられているのは、自分の言葉や名言集ではない。私たちが預けられているのは、生ける神の言葉です。信じる者を生かす言葉です。この御言は信じる者を造り変えていくのです。
もう一つは、「み手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なる僕イエスの御名によって、しるしと不思議な業を行わせてください」ということでした。「しるし」とは、確かに私たちが語り、宣べ伝えている神は生きておられると人々に確信させ、信仰に導くことがらであり、また「不思議なわざ」とは人の理解や期待を越えた神さまの業です。私たちが出て行くことによって、人間や期待や計算、常識・経験則、そのようなものを越えた、主イエスの御業が起こってくるのです。
彼らが祈った時、その場所がゆり動き、一同は聖霊に満たされた。私たちは、もう一度聖霊に満たしていただきたい。そうすると、私たちは求めたように大胆に神の言葉を語る者とされるのです。
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