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捜して救うために ルカ 19章 1〜10節
中村和司師
人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。(10)
人生には、いろいろな泥沼があり、もがけばもがくほどどうにもならなくなります。まず恐れの泥沼があり、世の人は目に見えない世界、死後の世界を恐れ、不安を抱いています。
ザアカイは、何故人々から白い目で見られ、悪人だと見られる取税人になり、木に登ったのでしょうか。確かに背が低かったと書いてありますが、それが悪人になり、木に登る訳ではありません。彼の心に恐れがあり、劣等感にとらわれていたからです。劣等感は恐れを生み出し、恐れはさらに劣等感を増して悪循環に陥ります。
彼はお金を武器にしました。自分は足りない、馬鹿にされるからお金持ちになって恐れから解放されようとしました。主イエスを見ようとした時、人々から拒絶され、壁にぶつかってもう一度恐れが襲ってきて、木に登ったのではないでしょうか。普通、立派な紳士が木には登りません。恐れの泥沼にはまり、逃れられなくなっていました。
また愛の泥沼があります。ザアカイは孤独でした。彼は、結局人を求めていました。お金よりも本当に欲しかったのは、人恋しさ、愛でした。お金や地位では彼は満たされませんでした。彼も愛されたかったのです。神様に造られた者が、造られたお方に背を向けている、これが罪です。罪が分からないと、自己中心で凝り固まっていますから、自己しか見えません。そして自分では、その自己中心をどうすることもできません。また傲慢があります。もがけばもがくほど罪の泥沼にはまってしまう。彼は主を求めていました。彼のやろうとしたことは、主イエスを上から見下ろすことで、精一杯でした。正直になれない、主のもとに行けず、罪の泥沼から抜け出せない。
しかし神様の一方的な御愛は、責めず、無条件に受け入れて下さいます。主イエスはザアカイがはまっている泥沼に来て下さった。求めながらも、上から見ようとする、その最悪の場所に主イエスの方から来て下さった。主イエスは、責めるのでなく、本当にザアカイを理解して下さいました。主は罪人を理解して下さいます。私たちがどんな存在であっても、主は私たちの最も身近なところで一緒にいて下さいます。神様は、あるがままの私たちを受け止め、理解して下さり、どこまでも追いかけて下さいます。そして主は、人間の心を本当の恐れ、愛を求める渇きから解放して下さいます。
私たちのすべきことは、神様の御前にあるがままの自らを投げ出して明け渡すことです。主イエスは、あなたの最も恐れているどん底にいて下さいます。主イエスに飛び込んで、造り変えていただく時に、私たちは泥沼から解放されて新しい人生が始まるのです。
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