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マタイ 26章1〜13節     2012年4月2日

よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう。(13)

 非常に対照的な二つの人々が描かれます。一つは祭司長たちや民の長老たちです。彼らは「策略」をもってイエスを捕らえて殺そう、と相談します。彼らの心は暗く、神が遣わされた救い主イエスを理解しようとも、受け入れようともしませんでした。
 もう一つは高価な香油をイエスに注ぎかけた女です。弟子たちは「むだ使い」と言いました。高価な高価な香油・・・もったいない、もっと有効な活用の仕方はないのか、という指摘も分かります。けれども、主は彼女の行為を喜んでくださいました。
 「福音の宣べ伝えられるところでは・・・」そうです。二千年たった今でも、そして、こんな遠い国でも、彼女のしたことは語られています。そして今も、今も同じことが起こっています。主イエスを愛する人たちは、この世的には「無駄だ」「もったいない」というような歩みをしていきます。しかし、誰にもまさって「もったいない」ことをしてくださったのは主ご自身でした。神のひとり子ご自身は、私たちのために命を捨ててくださったのです。 

マタイ 26章14〜25節     2012年4月3日

イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。(25)

 イスカリオテのユダは十二弟子の一人でした。彼もまた、多くの人たちの中から主イエスが祈りの中で選ばれた人物です。決して、最初から裏切るのはこの人にしておこうということで選ばれたのではなかったはずです。主イエスは違った期待を彼にも持っておられたことでしょう。イスカリオテというのは町の名前で、十二弟子の中で彼だけがユダヤ地方出身の人物で、お金を預かって管理する係でした。ただ彼は時に預けられたものを着服していたようです。彼の中に、お金の誘惑に対する弱さがあったのも確かでしょう。彼は銀貨三十枚でイエスを売り渡す約束をします。
 「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」と主イエスが語られた時に、ユダもどきっとしたことでしょう。「まさか、わたしではないでしょう」と白々しく尋ねるユダに主は、「いや、あなただ」と言われます。主イエスは最後まで、ユダが悔い改めることを期待しておられたのです。

マタイ 26章26〜29節     2012年4月4日

みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。(27〜28)

 主イエスは最初の聖餐式を行われます。まず、パンをさき、弟子たちに渡されました。そして言われます。「取って食べよ、これはわたしのからだである」。パンは主イエスが十字架において裂かれたお体を指し示しています。次に杯をとり、言われます。「みな、この杯から飲め、これはわたしの契約の血だ」。主イエスによって新しい契約の時代が始まろうとしていました。主イエスのあがないを信じることによって罪がゆるされるという新しい契約です。主イエスの十字架の血には二重の意味があります。第一に、旧約聖書の時代から、罪のゆるしのためには動物の血が流されなければなりませんでした。第二に、契約を結ぶ時には、モーセの契約の時もそうだったのですが、契約の書と民とに動物の血が振りかけられたのでした。これらの動物の血は、やがて主イエスが流される十字架の血を指し示していたのです。
 聖餐が守られるたびに、私たちは主イエスが十字架の上でなし遂げて下さった御業を思い起こし、今も、私たちの内に住んで下さる主を覚え、やがて再びこられる主を待ち望むのです。

マタイ 26章30〜35節     2012年4月5日

するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。(33)

 主イエスは弟子たちに予告されます。それは主イエスが捕らえられ、十字架に付けられると言うだけではありません。それは「今夜、あなたがたは皆、わたしにつまづく」という予告でした。それは弟子たちがその場に及んで、また実際に主イエスを裏切ってしまった後でも、それが旧約聖書に予告されていたことであり、また主イエスもそのことを知っておられたということを知るためでした。加えて、主はご自身のよみがえりと復活後に、ガリラヤで再会することを約束しておられました。それは十字架が単に弟子たちの弱さ・罪深さを暴くだけではなく、その向こうにゆるしと回復があるのだ、という慰めに満ちた約束でした。
 ペテロをはじめとして弟子たちは誰も、そのことをまともに受け止めようとしませんでした。そして、他の誰がつまずいても自分はつまずかないと断言します。彼らの人間的な勇気や覚悟は立派であったかもしれません。けれども彼らは自分の現実の姿を知りませんでした。しかし、主はそんな弟子たちや私たちのために死んでくださったのです。

マタイ 26章36〜46節     2012年4月6日

わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。(39)

 イエスはゲッセマネに行かれます。そこはエルサレム神殿の東側にあるオリブ絞りの庭で、月明かりでエルサレムの神殿や町が輝いていたことでしょう。けれども、主イエスはその町の城外で十字架につけられようとしておられました。主イエスは祈りなしに十字架に向かうことはできませんでした。主イエスは悲しみを催しまた悩み、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどだ」とおっしゃいます。
 主イエスは肉体的な苦しみ・痛みを恐れておられたのではないでしょう。イエスの「悲しみ」は人間の罪を身代わりに負って、神の呪いを身に受け、父なる神から捨てられるという悲しみでした。もし十字架以外に救いの道があるのなら、それを選ばせてほしいと主イエスは本心から思われたのです。しかし、主は、「しかし、わたしの思いのままではなく、みこころのままに」とおっしゃいます。そして祈り抜いた主イエスは父なる神の御心の真ん中を進んで行かれたのでした。

マタイ 26章47〜56節     2012年4月7日

しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか。(54)

 主イエスが祈り抜いて立ち上がられた時、向こうからイスカリオテのユダが、剣や棒を持った大勢の群衆と一緒にやってきます。そしてユダは接吻をもって主イエスを裏切ります。主はこの時にも、ユダに「友よ」と呼びかけられます。
 主イエスと一緒にいた弟子の一人が大祭司の僕に斬りかかりその耳を切り落とします。しかし、主は彼をとどめられたのでした。そして主はおっしゃいます。自分が願えば、十二軍団以上の天使の軍勢を送っていただくこともできる。一軍団はローマの単位で六千人でした。
 主は続けられます。けれども、もし、それをしてしまったら、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉が成就しない。主イエスは逃げる力、相手を倒す力がなかったのではありません。あえてそれをなさらなかった。それはキリストの苦しみによって救いがもたらされるという聖書の御言が成就するためでした。まさに主イエスは御言の成就に命をかけられたのです。

マタイ 26章57〜68節     2012年4月8日

イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。(64)

 捕らえられた主イエスはまず、大祭司カヤパの所に連れて行かれます。夜であったにもかかわらず、ユダヤ人議会が招集され、イエスの裁判が始まります。この裁判は最初から結果が決まっていました。イエスを殺すというのが宗教指導者達の目的だったからです。様々な偽証者たちが立ちますが、誰も主イエスを罪とすることはできません。最後に大祭司が、「あなたは神の子キリストなのか」ととても大切な質問をします。主イエスは「あなたの言うとおりである」と答えられます。そして、今は弱いように見える受難のイエスがやがて主なる王として雲に乗って再臨されることを告げられたのでした。
 そして、主イエスはまさに真実を言ったために、冒?罪に定められて死を宣告されるのです。主イエスの宣言に対して私たちが出すことのできる答えは二つです。主よ、信じますとこの方を信じ受け入れるか、とんでもない嘘つきだと言って拒み、死に定めるかです。

マタイ 26章69〜75節     2012年4月9日

ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。(75)

 ペテロは遠くからついてきて、大祭司の中庭に入り込み、何食わぬ顔をして、下役たちと一緒に座っていました。けれども一人の女中が近づいてきて、ペテロに、あなたはガリラヤのイエスと一緒だったと言います。ペテロはとっさに嘘をつきます。そして、ペテロは「あなたが何を言っているのかわからない」「そんな人は知らない」「その人のことは何も知らない」と最後には激しく誓うことさえしたのでした。
 ペテロが三度主イエスを否んだ時、主イエスが語っておられたように鶏が鳴きます。その時に、ペテロは主イエスの言葉を思い起こします。そして外に出て激しく泣いたのでした。
 ペテロがなぜ泣いているのか、誰も分からなかったことでしょう。確かにそれは悔いの涙であり、自分のふがいなさ・弱さ・罪深さに対する嘆きだったことでしょう。けれども、それはペテロが主イエスのお言葉を思い起こしたことは、彼の回復の第一歩でした。


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