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マタイ 5章1〜3節 2011年11月8日 |
こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。(3) イエスは山に登って、そこで人々を教えられました。山の上の説教と呼ばれるこの五〜七章は、群衆と弟子たちに対して語られ、神の国の倫理、神の国に生きる者の生き方について教えられているとされています。
主イエスはこの説教を、「さいわいなるかな」という言葉で始めておられます。これは幸せ・ハッピーという意味ではなく「祝福されている」ということです。神の恵みの中に置かれているのです。
ただし、私たちが普通、「祝福されている」と感じるのは、病気が治った・事業が成功した・結婚した・出産した・合格した・・・というように、自分に都合の良い事柄が起こった時です。確かにそれも祝福ですが、主イエスが語られた祝福はまた少し色合いが違っています。
最初にイエスが語られたのは、心の貧しい人です。これは心がどうしようもないほど貧しいということです。それは決して嬉しいことではありません。惨めなことです。けれども、同時に、心が貧しくて、神の憐れみなしに生きていけない・・・主イエスはそのような人こそが天国に入るのだとおっしゃるのです。
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マタイ 5章4節 2011年11月9日 |
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。(4) 主イエスが二番目に語られたのは、「悲しんでいる人」です。私たちの歩みの中には様々な悲しみがあります。大きな挫折を経験する悲しみ、誰かに裏切られる悲しみ、大切な人を失う悲しみ・・・普通は悲しんでいる人は、不幸な人であり、憐れむべき人であり、かわいそうな人とされます。そして悲しみの中にあって、私たちは、神にさえも見捨てられているように感じます。また、私たちの周りにいる人たちもそのように感じ、そのように噂するかも知れません。
けれども、主イエスはそのような悲しんでいる人に、あなたは神から見捨てられてはいない、あなたは気の毒な憐れむべき存在ではない、不幸ではない、あなたは祝福されている、あなたは神に愛されている、とおっしゃるのです。主イエスは「悲しみの人」と呼ばれてくださいました。主イエスは私たちの悲しみを知り、ただ共感するだけでなく、その悲しみの中でしか経験できない、豊かな慰めを下さるのです。
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マタイ 5章5節 2011年11月10日 |
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。(5) 三番目に出てくる祝福されている人は、「柔和な人」です。柔和ということの中にあるのは、謙虚であり、忍耐深く、心の優しい人の姿です。聖書の中には柔和と言われた人が二人います。一人はモーセです(民数一二3)。モーセは、文句を言い、つぶやき続けるイスラエルの民を相手にしながら、忍耐強く民を養い、導きました。もう一人は、主イエスです。主イエスは自ら自分のことを「柔和」とおっしゃいました(マタイ一一29)。主イエスは軍隊を率いて、恐れと武力で世を治めるのではなく、愛と平和をもって世を治める王として来られ、そのしるしとして、ろばの子に乗ってエルサレムに入城されました(マタイ二一5)。
柔和というのは何があっても、いいよいいよと見過ごすような物わかりの良さ、ではありません。モーセも主イエスも義が踏みにじられる時には激しく憤られました。怒るべき時には怒る。しかし、自分の正義を振り回して人を裁くというのではなく、忍耐をもって人を導くのです。実は地を受けついでいくのはそのような人なのだと、主イエスは言われたのです。 |
マタイ 5章6節 2011年11月11日 |
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。(6) 私たちが生きるこの地上においてはしばしば正義が踏みにじられ、正しいことよりも、楽なこと・豊かなこと・目立つことが重んじられることがあります。けれども、主イエスが山の上で取りあげられた祝福された者の姿として、四番目に取りあげられたのは、義に飢え渇いている人でした。義に飢え渇いている人は、正義が行われず後回しにされている現状を正しく認識し、正義が行われることを求めるのです。しかし、「義」を求める人は、単に自分の置かれている世界の不合理を憎むだけではありません。自分の中にも義がないことを認めて、それを求めるのです。
飢え渇いている人が満ち足りるようになる。主イエスはまさにそのために来て下さいました。主は私たちのために義を造り、私たちに義を着せてくださるばかりでなく、やがての日、必ず正しい裁きをしてくださいます。今、この地上でどんなに悪がはびこっているように見えたとしても、義が全うされる時が必ず来るのです。 |
マタイ 5章7節 2011年11月12日 |
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。(7) 主イエスが次に取りあげられたのは、「あわれみ深い」ということでした。あわれみ深いということは単に、人の痛みがよくわかり、優しいものの見方ができるというだけではありません。憐れみ深い人は、その心に迫ってくることがあれば、必ず自分にできることを始めます。あわわれみの心を決して閉じることはなく、それが具体的な行動としてあらわされていくのです。
主イエスは、そのようなあわれみ深い人に対する祝福として、彼らはあわれみを受ける、と約束されます。私たちが知りたいことがあります。それはたとえば、私たちが自分の周りに様々な困難や痛みの中に置かれている人々を見出してかわいそうだと感じ、またその人のために自分のできることを始めて行く。けれども同時に、いや、それ以上に私たちが知らなければならないことは、誰よりも、私自身が神と人からのあわれみを必要としている、ということです。あわれみを必要としている自分ということがわかると、なおさら、人に対してもあわれみ深い者となることができるのです。
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マタイ 5章8節 2011年11月13日 |
心の清い人たちは、さいわいである。
彼らは神を見るであろう。(8) 「心が清い人」がさいわいだということに対して異論を唱える人はいないでしょう。私たちは心の清さを、真実に求めていきたいと思います。ただ同時に、私たちは心の清さを一つの到達不能な高い目標、のようにとらえていないでしょうか。
主イエスは、心の清い人は神を見る、と約束されます。逆に言うと、心が清くないと神を見ることができないのです。確かに、聖書の人物たちは、天使を見るだけでも、自分は死んでしまうと考えました。汚れた自分は神の御前に立つだけでも死んでしまうと考えたのです。
けれども、私たちは本当に心が清くありえるのでしょうか。これは深刻な問題です。私たちは神を見たいと思う、その意味でも、心の清さは決して、心が清いことは大切だよ、という一般論ではすまないのです。
しかし、知って下さい。主イエスは、私たちに清い心を与えるためにこの世に来て下さいました。このイエスによって、私たちは神を見つつ生きる生涯へと入れていただけるのです。 |
マタイ 5章9節 2011年11月14日 |
平和をつくり出す人たちは、さいわいである。
彼らは神の子と呼ばれるであろう。(9) 聖書は、私たちが主イエスを信じる時に、神の子とされることを約束しています。この9節は、決して神の子になるためには、主イエスを信じる道以外に、平和運動を熱心にしていくという道があるということを言っているのではありません。神の子とされた人は当然、平和を造り出す者として生きるのです。そして人々は、そのような姿を見て、私たちのことを確かに、神の子だと納得することでしょう。
「平和」という言葉の背後にあるヘブル語はシャロームです。これは神の恵みと祝福が満ち満ちているさまを表す言葉です。私たちが生きる時に、そこにシャロームが生まれてくるのです。これは単に戦争反対を叫び平和運動に身を投じるということではありません。私たちの生きるごくごく身近なところ、家庭や職場、学校、隣近所を含んだ地域に平和をもたらしていく、それが私たちに期待されていることです。平和のために祈り、具体的に、そこに和解が生まれていくようなそのような存在として生きることなのです。
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マタイ 5章10〜12節 2011年11月15日 |
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。
天国は彼らのものである。(10) 八つのさいわいの最後は、「義のために迫害されてきた人たち」です。私たちが正しい生き方を貫こうとすると必ずと言っていいほど、反対や迫害に直面します(もちろん、いつでも自分を正当化し、反対する人を迫害者として位置づけるような生き方にならないように、いつでも謙虚さを失わないようにしなければなりません)。人々はあなたをののしり、あることないことを言い、様々な悪口を言ったり、あなたに危害を加えようとするかもしれません。迫害や無理解の中に置かれるということは決して楽しいことではありません。苦しくつらいことです。そして、案外、その迫害や反対は自分が今まで親しいと思っていた人から来るのです。
しかし、主イエスは、祝福されているとおっしゃいます。「天国は彼らのもの」という約束は、最初の「心の貧しい人たち」に対しても語られていたものです。「喜び、喜べ」、あなたには比べものにならないくらい大きな祝福が約束されているからです。
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マタイ 5章13節 2011年11月16日 |
あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。(13) 塩は昔から貴重品でした。人間が生きるために欠かせないものですし、人の食生活にバラエティーと喜びを与えるのです。単に塩味を加えるというだけでなく、甘みを引き立たせるためにも使います。また塩は、今のように冷蔵庫のない時代には肉や魚の保存のためにも欠かせないものでした。
けれども、もし塩のききめがなくなってしまったら、あり得ないことですが、塩が塩味を無くしてしまったら、それは塩でもなんでもない、ただの白い粉ということになってしまいます。そして、その存在価値を失って捨てられてしまうというのです。
主イエスは、私たちを「地の塩」とおっしゃいました。私たちにはすばらしい賜物が与えられ大きな使命が託されています。地の塩は、他のものとは異質です。たとい少量でも全体を味付けていきます。私たちも少数者であっても、真実に義を求め、祝福を祈る生き方を貫いていきたいと思います。
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マタイ 5章14〜16節 2011年11月17日 |
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(16) 主イエスは、次に、あなたがたは「世の光」とおっしゃいました。真っ暗な中にあっても,町のあかりは遠くまで届きます。あかりは照らすためにあります。あかりを隠してしまったら、あかりの意味はありません。
私たちも主イエスに出会う前は、闇でした。けれども、主は私たちを光としてくださったのです。ですから、私たちは与えられた光を人々の前で輝かす責任があります。
人々は、私たちのあかりを見て、自分自身の姿を見つめ直し、自分の進むべき道をもう一度取り戻すことができます。ここで光とは、「よいおこない」と言われています。私たちの存在から出てくるよい生き方・よい行いを人々は見るのです。そして、私たちがそれを通して期待しているのは、私たちがどれだけすばらしい人格者かということではなく、私たちの父なる神がどんなにすばらしい方かということを、人々が知ることなのです。
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マタイ 5章17〜18節 2011年11月18日 |
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。(17) このマタイ五17はマタイによる福音書の鍵になる言葉です。ユダヤ人たちは旧約三九巻を律法(モーセ五書といわれる創世記から申命記まで)と預言者(前期預言者<ヨシュア・士師・サムエル・列王>と後期預言者<イザヤ・エレミヤ・エゼキエル・小預言書>)と諸書(詩篇・箴言など残りの書巻)に分類しました。そして律法が一番大切で、その解説としての預言者、応用としての諸書という位置づけを与えたのです。ですから、この「律法や預言者」とは「旧約聖書」全体を指しています。
旧約聖書で約束されていたことは細部に至るまでみな実現する。主イエスはそのために来て下さいました。旧約聖書は主イエスにおいて成就したのです。マタイは旧約聖書を丁寧に引用しながら、主イエスの言葉を立証していきます。特に、一番大切な救いに関する約束が主イエスによって成就しようとしていました。 |
マタイ 5章19〜20節 2011年11月19日 |
わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。(20) イエスの時代、律法学者やパリサイ人は宗教家としての尊敬を集めていました。彼らは宗教的実践を励み、律法にどこまでも忠実であろうとする真面目な人々でした。彼らにとっては、律法を犯さないということが最重要課題であり、そのために細心の注意を払いながら、いつしか律法を語られた神を忘れ、神のみ思いだとか、神が語られた意図などは置いてきぼりになっていました。
ただ彼らは真面目でした。そして、自分の真面目さを誇り、同じようにできない人々を見下げるようになっていました。
彼らは人々との比較の中で自分の義を立てようとしました。あいつらよりは自分の方がずっと正しい、といように考えたのです。けれども、もし律法の行いによって義を立てようとしたら、最も小さい律法まで完璧に守らなければ意味はない・・・。
主イエスが律法学者やパリサイ人にまさる義を求められた時、人々は愕然としたことでしょう。しかし主イエスは、違う義を与えるために来られたのです。 |
マタイ 5章21〜26節 2011年11月20日 |
兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。(22) ここからは、主イエスは律法やその当時の言い伝えを一つ一つ取りあげながら、律法の意図していたところを語られます。その当時の宗教家たちは教えを述べる時に、自分の先生や、過去の偉大な宗教家はこう言った、というような話し方をしましたから、主イエスが「しかし、わたしは言う」と語られた時、人々は主イエスの権威に驚いたことでしょう。
「殺してはならない」、それは私たちの多くは当然のこととして守っていることでしょう。しかし、主イエスは、兄弟に対して怒ったり、「愚か者」「ばか者」と言う者は殺したのも同じこと、と語られます。殺さないからいいということではなく、私たちの心の中にある憎しみや、怒り、ゆるせない思い・・・は、殺すのと余り変わらない、それは神に対する礼拝とは相容れないのだと語られます。そしてあなたの方から和解の手を差し伸べるようにと求められているのです。 |
マタイ 5章27〜30節 2011年11月21日 |
だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。(28) 「姦淫するな」という戒めは、今の日本ではとても軽くとれられてしまうかもしれません。婚前交渉も、不倫も当たり前、性格の不一致という理由をつけ、両者が合意すれば離婚も自由だし、そのことを罪悪視する人も少ないことでしょう。
しかし、主イエスはさらに高い水準を求められます。情欲をいだいて女を見る者は心の中で姦淫をしたのだ。これは、結婚をして配偶者がいるのに、他の女性に情欲を抱くことへの戒めとされますが、主は心の中の純潔を語られるのです。
ユダヤ人の間では離縁状を渡して正式な手続きを取れば、男性の側からの離婚は比較的容易でした。自分勝手な理由で女性は離縁されました。それでも、律法にのっとって手続きをしているから・・・とうそぶいていたのです。ただし、神が結婚を定め、また「姦淫するな」と語られたのは、まさに自分の性を重んじ、相手の性を尊ぶと共に、神が合わせてくださった結婚を大切にするということだったのです。 |
マタイ 5章33〜37節 2011年11月22日 |
あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。(37) 口ばかりで実行が伴わない、ということが恥ずかしいことであることは言うまでもありません。私たちが何かを誓うということは、主に対して誓うということでもあり、主に対して果たす責任がある、ということはとても高い倫理的な考え方だったと思います。当時のパリサイ人たちは「神に誓って」とか、「主に誓って」と語って誓いを守れなかったら、神の御名を汚すことになってしまうので、「天」や「地」や「エルサレム」や「自分の頭」をさして誓いました。それなら守れなかったとしても罪を犯すことにはならないと考えたのです。しかし、これは全くの詭弁です。
誓ったことは守るべきです。ただ、主イエスは誓いを守れという以前に、「誓うな」とおっしゃいます。有限で弱い私たちは、誓いを守ることができなくなってしまうこともあるのです。ただ、「はい」か「いいえ」かそれを真実に語るだけで十分だ。それ以上誓うことの中には人間の傲慢が入り込んでしまうすきがあるからです。 |
マタイ 5章38〜42節 2011年11月23日 |
もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。(13) モーセに与えられた律法の中に「目には目を、歯には歯を」という言葉があります。これは目をやられたら、目をやり返せと、復讐を勧めている言葉ではありません。私たちは、誰かから危害を加えられたら、やられた以上に復讐したいと考えるものです。ですから、この言葉は、「目をやられても目だけでやめておきない」という復讐の限度を定めたものとされています。
けれども、ここで主イエスは、復讐自体を禁じておられます。右の頬を打たれたら左を差し出しなさい、上衣を奪おうとする者には下着も与え、何かを強制しようとする者には求める以上のことをする。私たちは、この主イエスの言葉を読む時に、あまりにも人がよすぎるように思います。もちろん、悪に対して毅然とした態度を取るべき時があります。この主イエスの言葉は、ただ状況に流され、言いなりになるようにとの命令ではありません。ただ私たちは裁き主なる主を信じる者としての自らを示し、また悪をはかる者にも、自発的な愛をもって向かうことを求められています。それが主イエスの生き方だったのです。 |
マタイ 5章43〜48節 2011年11月24日 |
しかし、わたしはあなたがたに言う。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ。(16) 自分の親しい、身近な人を愛し、敵を憎む、ということは当然のことでしょう。けれども、主イエスは、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と教えられます。敵がいないのではありません。明らかに敵意をもって近づく人の存在という現実があるかもしれません。けれども、主が私たちに求められているのは、そんな私に悪意をもって近づき、悪をたくらむような人を愛するということです。その人のために祝福を祈り、その人が神の恵みに立ち帰ることができるようにと祈り、とりなすのです。
なぜ、そんなことを主は求められるのでしょうか。私たちにそんなことができるのでしょうか。それは私たちの天の父なる主が、そのようなお方だからです。主は正しい者にも悪い者にも恵み深いお方です。そして、この完全なお方は、私たちにも完全であることを求めておられます。私たちは自分はとてもではないけれどそのような完全な者ではないし、それを求められても無理だと思います。しかし、完全な主は、私たちをもそのような者にしてくださるのです。 |
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