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マタイ 19章1〜12節     2012年2月25日

彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。(6)

 パリサイ人たちが主イエスを試みようとし、言葉のわなにかけようとして近づいてきました。主イエスが離婚を否定されたら、モーセが認めたものを否定したということでイエスを訴えられるでしょうし、離婚を肯定されたら、憐みに満ちた神を否定し、また主イエスのまわりにいる離婚女性たちの支持を失うことになるでしょう。
 主は、モーセが離婚に関する規定を定めたのは、不用意に離婚することのないようにするためであり、あくまでも消極的な容認だったと指摘されました。
 その上で、主イエスはどれほど、結婚ということが大切なことであるかを神の創造までさかのぼって語られました。神は創造の初めから人を男と女に造られ、人がその妻と結ばれて家庭を築いていくようにと定められました。人をその妻と結ばれるのは主です。主にあって、ふたりは一つになるのです。育ちも考え方も性格も多くの違いがあるでしょう。一つになるというのは同じになるというということではありません。一つのハーモニーを奏でるようになるのです。 

マタイ 19章13〜15節     2012年2月26日

幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である。(14)

 人々が自分の子どもたちを主イエスのところに連れてきました。主イエスに手を置いて祝福していただきたいと願ったからです。けれども弟子たちはそのような親子たちをたしなめました。当時の人たちの多くは子どものことを軽く考えていました。また多くの病人たちが押し寄せ、主イエスも忙しく過ごしておられる中で、子どもたちには緊急性がないと考えたかもしれません。
 けれども、その様子に気づいた主イエスはすぐに弟子たちをいさめられます。幼な子たちが主イエスのところに来るのをとどめてはならないとおっしゃったのです。そして、「天国はこのような者の国だ」と言われました。天国には幼な子のようにならないと入れません。幼な子は大人の保護なしには生きていけません。また本当に素直に親を信頼します。そして主の御前にあってそのような生きる姿勢を持ち続けることは私たちが大人になり、また、歳を重ねていっても失ってはならないものなのです。

マタイ 19章16〜22節     2012年2月27日

イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。(21)

 主イエスのところにひとりの青年が近寄って来ました。彼はイエスを試みたり、わなにかけようとしたのではありません。とても純粋な思いで主イエスに問いかけました。彼はとても真面目で、聖書の戒めを守って生きていました。けれども、彼の中に何かが足りない、という思いがあったのです。どれだけ真面目に生きていても、彼には永遠の命を持っているという確信がありませんでした。彼は「どんなよいことをしたら・・・」とイエスに問いかけます。
 主イエスは「他に何が」と問いかける青年に、帰って自分の持ち物を売り払い、貧しい人たちに施して、自分に従ってくるようにとおっしゃいました。すると、彼は顔を曇らせ、悲しみながら立ち去っていきました。彼はたくさんの資産をもっていました。そしてその資産を手放すことはできなかったのです。何をするかということと共に、私たちの心の姿勢が問われています。この青年は永遠の命よりも資産を選んだのでした。

マタイ 19章23〜26節     2012年2月28日

イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。(14)

 主イエスは「富んでいる者が天国に入るのはむずかしい」とおっしゃいました。このことは弟子たちにとっては大きな驚きでした。その当時の人々は、富は神の祝福と考えていたからです。その神に祝福されているはずの人たちが天国に入るのが難しいとすれば、誰が天国に入れるのだろうか、「では、だれが救われることができるのだろう」という弟子たちの戸惑いはそのようなところから来ています。主イエスは弟子たちを見つめられます。そして、とても大切なことを語られます。「人にはできない」。そうなのです。救いとは、私たちが努力し、そのことによって獲得するものではありません。人はどうがんばっても、自分の力で救いを自分のものとすることはできません。
 けれども主は高らかに宣言なさいます。「神にはできる」。人にはできないことを神はしてくださるのです。けれども、この「神にはできる」という言葉はとても重みのある言葉です。まさに、私たちに救いの道を開くために主は十字架に向かおうとしておられたからです。 

マタイ 19章27〜30節     2012年2月29日

おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。(29)

 あの金持ちの青年は持ち物を売り払って従え、とおっしゃるイエスの言葉に応えることができませんでした。けれどもそこでペテロが言います。「わたしたちはいっさいを捨ててあなたに従いました」。確かに、彼らは主イエスの招きに従って、舟も仕事も家庭も置いて、主に従っていました。ペテロは言います。「ついては、何がいただけるでしょうか」。ペテロの問いは話の流れからすると少々的外れなのですが、それでも主はペテロに対して、主に従う者に与えられる豊かな祝福を約束されました。おそらく弟子たちは、主イエスの言葉をこの地上の祝福として聞いたことでしょう。けれども主が見つめておられたのは、その再臨と永遠の御国でした。そして、それは、この地上のどんな祝福にもまさる豊かな天の祝福です。
 ただ、同時に主イエスは「多くの先の者はあとになる」と警告されました。自分はこんなにしたのだから報われて当然と考える人は、大切な者を見失ってしまいかねないのです。


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