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マタイ 4章1〜2節     2011年11月1日

さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。(1)

 イエスはナザレで三十歳まで大工の息子、大工の家の長男として過ごされます。イエスの宣教は足かけ三年と言われます。それまでの三十年間、自分の家庭の中での責任を果たされたのです。また後にエルサレム教会の指導者となっていくヤコブをはじめ、弟たちに身をもって神の前にある生き方を示しておられたとも言えます。
 バプテスマを受けられたイエスは御霊によって荒野に導かれます。ある意味では、イエスは断食をしながら、荒野での祈りに導かれたとも言えるでしょう。けれども同時にその荒野は、悪魔の試みのある地でした。イエスは神の子だから誘惑にあわなかったとか、あっても平気だったとかいうのは大きな誤解です。イエスは誘惑にあって苦しまれたのです。
 四十日というのはイスラエルがエジプトを出た後、約束の地に入る前に過ごした荒野の四十年につながっています。そこで、イスラエルの民は四十年間つぶやき続けたのでした。しかし、イエスはここでイスラエルの失敗の歴史をもう一度、神への従順をもって踏み直しておられるのです。

マタイ 4章3〜4節     2011年11月2日

イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。(4)

 悪魔はイエスに石をパンにするようにと言います。イエスは神の子であり、確かに石をパンにする力をもっておられました。サタンもそのことを何も疑っていません。それでは、ここでは何が問題になっているのでしょうか。悪魔はなぜこのような誘いをイエスにかけているのでしょうか。石をパンにするかどうかということ自体は余り大きな問題ではありません。
 ここで問題になっているのは、救い主がどのように救いの道を成就するのかという問いなのです。イエスは四十日の断食の後で、極度の空腹状態にあります。イエスはパンがないという極限の状況で人間がどんなに苦しむかを知って下さっています。そこで悪魔はイエスを誘うのです。人々に本当に必要なのは、十字架によってもたらされる罪の赦しではなく、パンではないか・・・。
 けれども主イエスは、申命記八3を引用しつつ答えられます。人にとって欠かせないものは、神の口から出る言だ。神は今もそのお言葉をもって私たちを生かしてくださいます。

マタイ 4章5〜7節     2011年11月3日

イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。(7)

 御言をもって悪魔に勝利されたイエスに、悪魔は今度は御言をもって挑みます。詩篇九一11〜12を引用し、宮の一番高い所から飛び降りてみるようにと勧めるのです。その当時、救い主は突然宮にあらわれるという期待がありました。その意味では、イエスが宮から飛び降りて無傷で人々の前に立ったら、人々はイエスがメシヤであることをすぐさまに認めたかも知れません。
 けれども、人々を驚かして、不思議や奇跡によって人々を屈服させるのも主イエスのとられた手段ではありませんでした。
 サタンは、ここで聖書の御言を自分の目的のために利用しようとしています。そしてサタンがイエスを誘っているのも、まさにイエスが神の言葉を自分の都合のために利用することでした。私たちは自分の目的の遂行のために御言を利用するのではありません。私たちは御言に屈服し、御言を、私たちに語られる神の御旨として受け止め、従って生きるのです。

マタイ 4章8〜11節     2011年11月4日

するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。(10)

 悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世の全ての国々とその栄華とを見せます。そして、これらのものを皆あなたにあげましょうとうそぶくのです。まるで悪魔は自分が世界の全ての権威をもっていて、全てが自分の自由になるかのような話をします。サタンは偽りの父です。だまされてはいけません。すべての権威をもっておられるのは神ご自身です。
 悪魔はひれふして自分を拝むようにと言います。十字架のような面倒なことをしなくても、世界のずべてをあげてもいいと言うのです。確かにこの世では少なくとも表面的には、悪魔に頭を下げて、彼に調子を合わせて生きた方が出世し、金持ちになり、成功し、幸せになるように思えるかも知れません。そのように錯覚させるのはサタンの常套手段です。
 確かに信仰者の歩みは、いつもこの世的な成功に結びつくわけではないかも知れません。イエスは、決然と、「ただ神にのみ仕えよ」と申命記六13の御言をもってサタンに勝利されたのでした。

マタイ 4章12〜17節     2011年11月5日

この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。(17)

イエスにバプテスマを授けたヨハネはその当時ガリラヤとペレヤを治めていた領主ヘロデ(イエス誕生の頃のヘロデ大王の子)の罪を糾弾して、ヘロデに捕らえられてしまいました。そのことはイエスにとって、時の転換を知らせる一つのしるしであったようです。イエスはナザレからガリラヤ湖畔のカペナウムに住居を移し、教えを始められたのでした。カペナウムはイエスの宣教の基地になります。
 そこは「異邦人のガリラヤ」であり「暗黒」「死の地」「死の陰」と称される地方でした。けれども、イエスはそこで教えを述べ、「天国は近づいた」と語られます。「天国」は「天の王国」であり、他の福音書では「神の国」と書き記されています。マタイは神の名をみだりにとなえない、ユダヤ人たちに対してイエスの事を知ってもらうために、あえて「神」という代わりに「天」と言ったのだろうと言われます。神の支配が近づいています。悔い改めて救い主なるお方を信じるべき時が来ています。

マタイ 4章18〜22節     2011年11月6日

イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。(19〜20)

 イエスはガリラヤ湖畔を歩き、海に網を打って漁をしていたペテロとその兄弟アンデレに声をかけられました。「わたしについてきなさい」・・・それは弟子となるようにとの召命でした。それはイエスの命令に従う生涯に入るようにというよりも、イエスの行く所に共に行くようにという招きでした。イエスが先に行き、共に行ってくださるのです。
 イエスは約束を与えられます。「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」。それまで彼らは魚を相手に生きてきました。けれどもイエスは、彼らを召して、人を相手にし、人をとらえ、導く者へと召してくださったのです。そして、「してあげよう」とおっしゃる主がそのことを私たちのためにもしてくださるのです。
 大切な事は、「いつか」「そのうち」ではなく、「すぐに」主に従って歩み出すことです。イエスに従うのに邪魔になるものは捨てて、ただちに従うことなのです。

マタイ 4章23〜25節     2011年11月7日

イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。(23)

 イエスはガリラヤ全地を行き巡られました。またイスラエル全土からおびただしい群衆が集まってきました。イエスがなさったのは三つのこと、宣教と教育と力ある業でした。
「御国の福音を宣べ伝え」・・・イエスは旧約聖書に約束されていた救いの時が来たこと、だから悔い改めて、信じて歩み出すべき事を語られました。そして、主イエスとの出会いによって多くの人々の生涯が変わっていきました。
「諸会堂で教え」・・・どこの町にも礼拝と教育の場として「会堂」がありました。イエスは会堂に入って御言を読み、人々に神のことをわかりやすく教え、対話の中で人々を導かれました。
「あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった」
・・・イエスには権威がありました。病気はいやされ、悪霊につかれた人々も解放されました。イエスは今も教会を通して働いておられます。


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