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マタイ 16章1〜4節     2012年2月9日

あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。(3)

 パリサイ人はとても生真面目な宗教家たちで、ある意味禁欲的な生活をし、霊的な部分を大切にし、死後の命や祝福を信じている人たち、サドカイ人は現世的で、今与えられている生活を守ろうとし、霊や死後の世界などは信じない人たちでした。全く考えたかを異にする両者が、こと主イエスに対する憎しみにおいては一致し、協力してイエスを攻撃していました。彼らはイエスに対して、イエスが特別な人物であったら、そのしるしを見せるようにと要求します。
 それに対して、主イエスは、しるしはすでに与えられているのだ、それを見て、今なすべき事が分からなかったら、何を見ても信じることはできないだろうとおっしゃったのでした。確かに信じない人は何を見ても信じません。ヨナのしるしとは主イエスの死と復活を指しています。それを信じなかったら、何を見たら信じるというのでしょう。すでに神は私たちが信仰の目をもって見たら分かるようにしるしをくださっているのです。大切な事は信仰をもってしるしを見、時代を見分けることです。

マタイ 16章5〜12節     2012年2月10日

そこでイエスは言われた、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」。(6)

 イエスは弟子たちに「パリサイ人とサドカイ人のパン種を、よくよく警戒せよ」と命じられました。弟子たちは「パン」と聞いて、自分たちがパンを忘れていたことを叱ってこれからは注意するようにとおっしゃっているのだろうと勘違いをします。主イエスはパンを忘れてきたら食糧はどうするのか、という話をしているのではありません。主は、男だけで五千人、また四千人の人々を満腹させて下さるお方です。主イエスと共にいた弟子たちが、食べるものや生活のことで心配したり、不安になったりすることを主は喜ばれなかったことでしょう。
 主イエスが語られたのは、間違った教えのことです。少しの間違った教え、ずれた信仰を少しだからと受け入れ、妥協していくと、その信仰生活や信仰者としてのあり方の全体に影響を及ぼし、全体をダメにしてしまうことがあるのです。自分の考えにとらわれて、信じようとせず、自分の力で救われようとしたり、また目に見える地上的な豊かさ・繁栄だけに心を向けたり、といった間違った教えに巻き込まれないように、私たちも心したいと思います。

マタイ 16章13〜17節     2012年2月11日

シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。(16)

 主イエスはまず弟子たちに、人々が自分のことを何と言っているかと問われます。その時代の人々は、イエスの事を、昔の預言者の一人のように語っていました。今も人々はイエス・キリストについていろいろなことを言うでしょう。世界三大聖人の一人、世界的な宗教を始めた教祖、偉大な預言者、道徳家、ユダヤ教の教師、社会の底辺にいた人々に寄り添った社会運動家、超能力者、偉大なカウンセラー、悲劇の人・・・。けれども、そこで主イエスは問われます。「それでは、あなたがたはわたしをだれというか」。
 ペテロは答えます。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。キリストとは油注がれた者、旧約聖書で約束されていた救い主のことです。あなたこそが救いをもたらすために来られた方というのです。しかし、ここで、ペテロが言った、「生ける神の子」という告白はとても大きな意味をもっています。その当時の多くの人たちにとっては自分たちを救ってくれるのなら、その救い主は誰でもよかったからです。けれども、救い主として来てくださったのは、まさに神の子なるお方だったのです。

マタイ 16章18〜20節     2012年2月12日

そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。(18) 

 主イエスはこのペテロの信仰告白をとても喜ばれました。けれどもこの告白は人間の知恵だけでは決して届き得ないものです。それが分かるのは、父なる神の御業なのです。
 主イエスはこの岩の上にわたしの教会を建てようとおっしゃいます。カトリック教会では主イエスが「この岩」と言われたのは、ペテロ自身の事だと言います。けれどもプロテスタント教会ではペテロという人間自身のことではなく、ペテロのした信仰告白のことだとされます。
 教会は、今も、この信仰告白を土台と立てられています。教会を建てて下さるのは主です。主が信じる者たちを加え、教会を建て上げて下さるのです。それはまさに主イエスの教会です。悪魔は決して、それを打ち破りダメにすることはできません。そして、教会には「天国のかぎ」が与えられています。教会は主イエスを主と告白する者にゆるしと救いを宣言する権威が与えられているのです。

マタイ 16章21〜23節     2012年2月13日

イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。(23)

 ペテロの信仰告白は主イエスの公生涯において明らかに大きな転換点になっています。これを境に主は、ご自身の受難と復活について語り始められるのです。けれども、これは弟子たちには耐えられない言葉でした。弟子たちは主イエスが救い主であることは信じていたのですが、主イエスが自分たちを罪から救う救い主であり、そのために十字架の死が必要だということは全く理解できませんでした。
 主イエスをいさめたペテロに対して、主イエスは、サタンよ引き下がれ、と厳しく叱責されます。十字架の道は主イエスにとっても決して生やさしいものではありませんでした。そしてイエスご自身、十字架を避けさせようとする悪魔の厳しい働きかけを感じておられたのでしょう。
 私たちは神のことを思っているでしょうか。それとも人のことだけを考え、自分の居心地の良いこと、人に気に入られることだけを考えて生きるのでしょうか。 

マタイ 16章24〜28節     2012年2月14日

だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。(24)

 弟子たちは主イエスが地上の王になって、国を治め、ローマからも政治的な独立を得、もう一度ダビデの王国を復興する、ということを夢見ていたことでしょう。しかし、主イエスが歩まれたのは十字架の道でした。そして、主イエスは弟子たちをもその十字架の道に招かれます。私たちはイエスとは違って、誰かの罪の贖いをするとか、救いをもたらすということではありません。しかし、自分が得をし、自分があがめられ、自分が守られる、というような自分中心の歩みではなく、自分を捨てて主イエスに従って行く道へと招かれているのです。自分を捨てるとは自分を粗末にするということではありません。主イエスに従って、自分にゆだねられた重荷を負って従って行く道が一番豊かな命の道なのです。
 「御国の権威をもって来る」時とは、復活とか、ペンテコステとか、ヨハネの見た天国の幻を指しているとかと言います。いずれにしても、私たちが覚えたいことは、十字架の主は、御国の力をもって来られる主だということです。 


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