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マタイ 17章1〜8節     2012年2月15日

ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。(2)

 「六日ののち」とここには記されています。この出来事が、弟子たちにとって忘れられない大切な出来事であったしるしです。主イエスは弟子の中から選んだ三人だけを伴って高い山に登ります。そして、そこで、主イエスの姿がまばゆいばかりに輝きました。弟子たちは、主イエスの本来のお姿を垣間見たのです。
 そこにモーセとエリヤが現れます。そして主イエスと三人で語り合うのでした。モーセもエリヤも危機の時代に民を導いた旧約聖書を代表する人物でした。主イエスは十字架に向かうにあたって、彼らと話をしたいと願われたのでしょう。
 天からの声に恐れて顔を伏せた弟子たちが、再び顔を上げた時には、そこには主イエスしかおられませんでした。後に、そのところにいたペテロは主イエスの再臨のことを語る時に、この山の上での主イエスの輝くみ姿を思い起こし、自分の確信を強くしたのでした(Uペテロ一16〜18)。

マタイ 17章9〜13節     2012年2月16日

一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。(9)

 主イエスはご自身の姿変わりのことを誰にも話してはならないと命じられました。主イエスはそのことが人々に誤解を与え、誤った期待を抱かせることを知っておられたのです。けれども同時に、主イエスはそのことをいつまでも黙っているようにとおっしゃったわけではありません。「人の子が死人の中からよみがえるまで」という限定付きです。主イエスはご自身が十字架にかかられることを知っておられました。それが主イエスがこの世に来られた目的でした。けれども同時に、その贖いの死が、死で終わらないことも知っておられたのです。
 律法学者たちは救い主(キリスト)が来られる前に、エリヤが来るはずだと言っていました。それはマラキ四5にある約束です。けれども確かに主イエスが来られる前にエリヤは来ていました。マラキを通して神が予告しておられたのはバプテスマのヨハネのことだったのです。信じない人は、神のしておられることを理解することができませんでした。 

マタイ 17章14〜21節     2012年2月17日

よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。(20)

 イエスと三人の弟子たちが山の上にいた時、山の下では大変な出来事が起こっていました。子どもに悪霊が取り憑いて、てんかんのように火の中・水の中を転げ回ってしまう・・・途方に暮れた父親がその息子を主イエスの所に連れてきました。ところがあいにく、主イエスは山の上にいて留守でした。そこにいた弟子たちは、その男の子から悪霊を追い出そうとするのですが、できません。すでに弟子たちは悪霊を追い出した経験があったのですがこの時にはできなかったのです。弟子たちは焦ってきます。けれども、そこに主イエスが帰ってこられて、この子を助けて下さったのでした。
 主イエスの所に来て尋ねる弟子たちに、主イエスは、「信仰が足りないから」とおっしゃいます。ただこれは信仰の量とか大きさの話ではありません。どんなに小さな信仰でも山が動くのです。まさにここで問われているのは神に対する生きた信仰があるかどうかということなのです。

マタイ 17章22〜27節     2012年2月18日

「・・・この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである・・・」。(25〜26) 

 宮の納入金はいわゆる神殿に納める人頭税でした。その納入金は一人半シケルでした。納入金を集めに来た人が帰っていったあとで、主イエスはペテロに問われます。王の子は税や貢は納めなくていい・・・その意味では、神の子イエスは宮に納める納入金は不要なはずです。主イエスは、まさにここで自分が神殿において礼拝されている神の、子なる者であることを明らかに宣言されたのです。
 けれども同時に、ここで主イエスは人々に不要なつまずきを与えることを避けられました。人々が十字架につまづくのはやむを得ません。けれども、それ以外のところでは主イエスは人々にゆずられました。そして、謙虚になって、言われるままに納入金を納められたのです。主イエスに言われたようにペテロが釣り針をたれると、魚が釣れて、その口から一シケル銀貨が出て来ました。そしてペテロはそれを主イエスと自分の分として納めたのでした。


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