バックナンバー
|
マタイ 6章1〜4節 2011年11月25日 |
自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。(1) 律法学者やパリサイ人たちの義と、主イエスのおっしゃる生き方の差が鮮明にされていった後に、パリサイ人たちの生き方のどこが問題なのかが明確にされていきます。それはその当時の宗教家たちが何をするにも人に見せるということが重要で、人からよく見られたい、尊敬されたい、偉いと言ってもらいたい、というのが行動の動機になっているということでした。神の前に生きていると言いながら、実は神さまはどこにもなくって、いつも人のことしか意識していない・・・主イエスはそんな彼らを「偽善者」とおっしゃるのでした。
たとえば「施し」をするとしても、自分でもそのことを意識せず、忘れてしまうほどに隠れたこととする。私がした、私がしてあげた、と言った時点で、せっかくの神さまの報いを失ってしまいます。私たちは人に注目され、人にほめられるためではなく、ただ神のまなざしを意識して生きるのです。
|
マタイ 6章5〜8節 2011年11月26日 |
あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。(6) このところでは「祈り」が取りあげられます。主イエスの時代の宗教家たちは、一番目立つ場所に出て行って、長々と祈るのを常としていました。それを見ていた人々はその「宗教性(?)」の高さに感心し、そのような宗教家たちを尊敬していました。けれども主イエスは、そのような祈りは、祈りではないと指摘されます。彼らは人の報いを求めていて、その祈りは神さまに向いていないというのです。
主イエスは、誰も気づかないような場所、自分の家の一番奥の窓もないような部屋に入り、戸を閉じて祈れと教えられました。それは私たちの天の父は、隠れたところにおられ、隠れたことを見ておられるお方だからです。
またそこでは祈りの長さが大切というのでもありません。神は私たちの必要をご存じです。それでも私たちが祈るのは、神の思いを知らせていただき、神と親しい交わりをするためなのです。
|
マタイ 6章9節 2011年11月27日 |
天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。(9) 「主の祈り」だけしていればよいというわけではないでしょうし、また短い方がよいということでもありません。しかし、主イエスはくどくどと長く祈れば自分のその熱心さによって主が答えてくださるかのような宗教家たちの姿勢を批判し、あるべき祈りの姿を「主の祈り」の中に示してくださったともいえます。
まず、ここでまず、私たちの祈りをささげる相手が、天の父でいてくださることを知ります。このお方は、私たちを愛し、守り、その命のつながりの中に、私たちを支えてくださるお方です。そして、このお方は、単に「私」の父であるだけではなく、「われらの」父です。私たちは主にある兄弟姉妹との交わりの中に生かされ、主の御前に共に出るのです。
最初の求めは、「御名があがめられますように」という祈りです。自分のための様々な求めに先立って、私たちが待ち望むのは、神が栄光をおとりになることです。世界中の人々がこの神をあがめることなのです。 |
マタイ 6章10節 2011年11月28日 |
御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。(10) 次の求めは、「御国が来ますように」というものです。「御国」とは神の支配される王国のことです。もちろん、今も、主はご自身の造られた世界に対して責任を負っておられます。けれども、同時に、神は今は、罪人たちが自分の悪い意図のままに歩んでいくのを見過ごしておられるという現実もあります。主イエスは「神の国は近づいた」とおっしゃいました。主イエスはこの世に来て、まさにその救いの道を開かれました。ここに神の国は来たのです。そして、その神の国の完成の時が来ます。それこそが私たちが待ち望んでいる主の再臨の時です。
そして、私たちは、私たちが歩むこの世にあっても、主のみこころが全うされることを祈り求めます。主の「みこころ」は私たちの人間的な願いとは別のところにあるかもしれません。けれども、主のみこころはいつも最善です。私たちはこの祈りをささげる中で、単に世界に主のみこころがなされるようにというだけではなく、あのマリヤがガブリエルに言ったように、自分自身の生涯の上に、主の御言、そのみこころが成就することを求め、受け入れるのです。
|
マタイ 6章11節 2011年11月29日 |
わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。(11)
神に栄光があるように求める祈りで始まって、11節以降は自分たちの必要を覚えて祈る祈りになっていきます。ここで最初に取り上げられるのは「日ごとの食物」です。25節以降にあるように、食事のことを心配して祈るということではなく、これは信頼の祈りであり、また私たちがごくごく当たり前と思っているような「食物」ということにおいても、実は主の恵みの中で与えられているものであることを私たちは思い返し、食事をするたびに、この食事も神が与えてくださったものなのだということを再確認するのです。
それはまさに「日ごと」の食物を求める「日ごと」の祈りです。荒野においてイスラエルの民は毎日マナを集めなければなりませんでした。マナはその日の分だけで、取り置きはできなかったのです。私たちもまた毎日主の恵みを必要としています。
ここで「日ごとの食物を」求める祈りは、「わたしたちの」と書かれています。私たちはただ自分の必要だけを祈るのではなく、共に歩むお互いのことを思いながら祈ることを求められているのです。
|
マタイ 6章12節 2011年11月30日 |
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。(12) 負債というのは具体的なお金の貸し借りの問題だけではなく、14節に続くように、お互いの罪深さのゆえに誰かを傷つけたり、傷つけられたりということも含んでいるのでしょう。
私たちはお金を借りたことは忘れてしまいますが、貸したことは少額でも忘れません。誰かを傷つけてしまったことは忘れても、傷つけられたことは忘れないものです。
けれども、この祈りの中では「ゆるしました」と祈るようにと求められています。私たちはゆるせない誰かがいる時に、「ゆるせるように助けてください」と祈ります。しかし主が求められるのは「ゆるしました」と祈ることです。自分の思いに反して、そんな白々しいことはできないでしょうか。自分の力ではできなかったとしても、主は「ゆるします」と祈る人に、ゆるしの心と平安を与えてくださいます。
それは実は私たちは人に対して、それ以上に神に対して、とんでもない負債を負っている者であり、また赦しを必要としている存在だからです。 |
マタイ 6章13節 2011年12月1日 |
わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。(13) 私たちは信仰の生涯の中で様々な試練にあいます。それは様々な困難である場合もありますし、私たちを神に背かせようとするような悪魔のたくらみである場合もあるでしょう。いずれにしても、私たちはそのような中で、信仰を試されます。信仰的な決断をして、主に信頼し、主に従うことを求められているのです。
けれども同時に、自分自身も弱さを抱える中で、負わなくてもよい試練の中にみずから飛び込んでいく必要はありません。私たちは決して強くはないのです。ですから主は、「試みに会わせないで」と祈るようにとおっしゃったのです。
悪しき者はいるのです。それは私たちを陥れようとするサタンであり、また私たちに悪をたくらむ人々です。私たちは試練や誘惑の中で、どんなに自分が小さく力がなかったとしても、しっかり立って戦わなければなりません。けれども、その中で勝利していくのは、私たちを救ってくださる主の御力であることを今日も知りたいと思います。 |
マタイ 6章14〜15節 2011年12月2日 |
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。(14) 私たちの天の父はあわれみ深いお方です。私たちは多くのあやまちをおかすものですが、主は私たちをゆるしてくださいます。しかし、そこには条件があります。それは、私たちが人々のあやまちをゆるすということです。
知ってください。私たち自身が、まず赦しを必要としている存在です。もし、私たちがかたくなに人を受け入れることを拒み、ゆるすことを拒み続けているとしたら、天の父は私たちをゆるすことをなさらないでしょう。
神は私たちを造ってくださっただけでなく、また私たちに対して危害を加えようとしたり、おとしめようとする人々をも造って下さいました。ただ、その人のしていることは主が最初に計画しておられたことからすると大分ずれています。けれども、私たちはその人もまた主の恵みに立ち帰って、主が願っておられる輝きを取り戻していくように祈りたいと思います。 |
マタイ 6章16〜18節 2011年12月3日 |
それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。(18) 食事は神が私たちに与えて下さった大きな喜びです。そして、主イエスも人々と共に食事を楽しまれました。聖書の中には食事の場面があふれています。けれども、主も時に食事を断って、ひとり祈られることがありました。とても大切で、私たちの基本的な欲求の一つである食欲をも後回しにするほど、集中して真剣に、神の前に出るのです。
ただ、主イエスの時代、宗教家たちは断食をしている自分自身の宗教性に酔い、それを人の前で自慢しました。彼らはできるだけ人々の前に、厳しい実践をしているように見えるようにと、断食の時にはとても苦しそうで陰気な顔をしたようです。
けれども、主イエスは、断食するなら、顔を洗い、頭には油を塗って、それが人にわからないようにしなさいとおっしゃいました。神は、隠れたことをごらんになって、それに報いて下さる方だからです。
|
マタイ 6章19〜24節 2011年12月4日 |
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。(20〜21) 地上に宝を積むことに夢中になっている人々に対して主は警告しておられます。無駄遣いをしないで、いざという時のために最低限の備えをしておくのはとても大切で、責任あることです。しかし同時に、富は蓄えても蓄えても際限がなくなってしまうものです。そこに「欲」が出てくるからです。大切なのは、その与えられ、神に託された財をどのように用いるかということです。
主は、私たちが地上のことばかり考えて、地上に宝を蓄えていると、虫がついたり、さびたり、盗人に取られてしまったりする、とおっしゃいます。お金はいざという時に、必ずしも私たちを助けてはくれないのです。お金の事ばかり考えていると目が天に向きません。お金が私たちの主人にならないように気をつけたいと思います。私たちの仕えるのは主お一人なのです。
主イエスは主のために有効に財を用いて、天に宝を積むようにとおっしゃいました。天を見上げて生きる者でありたいと思います。
|
マタイ 6章25〜32節 2011年12月5日 |
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。(30) 私たちはいろいろなことを心配します。時代は変わり、どれほど科学が進み、文明が進歩しても、心配が尽きることはありません。かえって深まるばかりです。確かに私たちの多くは今の時代、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかというようなことで悩み心配することは少ないかもしれません。けれども、今は今の悩みがあります。不安や心配があります。
主は、空の鳥を見るがよい、野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい、とおっしゃいました。空の鳥も、野の花も何かを自分でしたり、心配したり、気を回したりすることはありません。けれども、天の父はそらの鳥を養い、野の花を咲かせて下さるお方なのです。しかし、主は、それ以上に、私たちのことを心配し、いつも私たちによいことをしてくださいます。私たちは私たちの必要を全部ご存じで、それを豊かに満たすことがおできになる主に信頼し、安んじて歩みたいと思います。
|
マタイ 6章33節 2011年12月6日 |
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。(33) 何を食べようか、飲もうか、着ようかと、自分の命やからだのことで思いわずらうのが、現実の私たちかもしれません。私たちは日常の歩みの中で多くの悩みを抱えます。けれども主イエスは、それらの必要については、神が全部をご存じだし、心配していてくださる、そして、その必要は必ず満たされていく、とおっしゃったのです。
そして、主イエスがおっしゃったのは、もっと大切なもの、真に求めるべきものがある、それは神の国とその義だということでした。私たちは、神の国が、その支配が成就するようにと祈ります。そのことが、私の生涯においても実現し、また、やがて主イエスの再臨の時に完成するように、私たちは求め続けるのです。
「神の義」とは、単に、神の正義があらわされるようにというだけでなく、私たちを義とする神の救いが成就するようにということです。他のいろいろなものは、この神の祝福と比較したらみんなおまけにしか過ぎないのです。
|
マタイ 6章34節 2011年12月7日 |
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(34) 「あすのことを思いわずらうな」と主は言われます。
それは私たちの日々の必要は主が知っていてくださいますし、また満たしてくださるからです。また明日のことを思いわずらったとしても、私たちは自分が明日生きているかどうかも知らない者なのです。もちろん、将来のことについて無計画でいてよいということではありませんし、今さえよければいいのだという現世主義を、主イエスは勧めておられるわけでもありません。
主が教えられたのは、明日のことを心配しだして、今日のことがおろそかになってしまうことへの戒めです。主は、私たちが神に信頼し、ゆだねて生きることを願っておられます。私たちは、今日も一日の働きを励んでいきます。けれども同時に、自分のなすべき事をきちんとしながらも、自分の手に負えない、自分の手の中にないことが多くあることを認めて、主に信頼することが大切なのです。
|
|
|