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マタイ 10章1〜4節 2011年12月29日 |
そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。(1) 主イエスがその三年間の公生涯の中でなさったのは、昨日も学びましたように、「教え」「宣教」「力ある業」でしたが、それ以上に主が心血を注がれたのは、弟子たちを育てるということでした。わずか三年で、主イエスは十字架にかかって私たちための贖いを全うし、そして、復活し、父の御許に帰って行かれる・・・その後は聖霊に満たされた弟子たちが負っていくのです。主イエスは、核になる一二人をお呼びになりました。
ただ、選ばれた一二人の顔ぶれを見ると、何とも不思議な人選と言わざるを得ません。ガリラヤの漁師が少なくとも四人、取税人、熱心党と言われる右翼の組織員・・・。ほとんどがなまりの強い北部ガリラヤ地方の人たちで、南部のユダヤ地方の出身者はただひとりイスカリオテのユダ。いわゆる人間的な優秀さで選んだ人選ではないでしょう。しかし、主は彼らに力を権威を与えて、彼らを遣わされたのです。そして知って下さい。主はあなたのことも、ご自身の弟子として呼び寄せて下さったのです。 |
マタイ 10章5〜15節 2011年12月30日 |
その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。(12) 一二人の弟子たちを遣わすにあたって、主はいくつかの注意事項と宣教者としての心得、そして励ましを与えられます。まず、彼らの宣教はこの時点では、イスラエル人に対するものに限定されていました。もちろん、後にこの宣教命令は全世界に拡大されます。
主は彼らにご自身が持っておられた権威と力をゆだねられます。そして、彼らは御国の福音を宣べ伝えると共に、人々をいやし、悪霊を追い出していきました。
そして、また主イエスは弟子たちに、その宣教旅行には多くを持って行かないようにと言われます。必要最小限のものだけを持って行く、それは、主に仕える者たちが、主に信頼して生きることを学ぶためだったでしょう。
彼らは、どの村に行っても、拠点になる家を捜して、そこに滞在し、その家のために平安を祈るようにと教えられました。確かに様々な力ある業を行うこともすばらしいことですが、それ以上に、平安を祈るという務めは主が私たちに託していて下さる大切な務めなのです。 |
マタイ 10章16〜23節 2011年12月31日 |
語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。(20) マタイは、このところを自分が主イエスに聞いたことを思い出しながら書いていると共に、執筆に当たりながら、この福音書を読んでいる読者たちに思いを向けていたはずです。当時の教会はすでに多くの迫害の中にありました。主イエスご自身も十二弟子を前に置きながら、その後の教会の歩みを思っておられたことでしょう。信じる者たちの群れが宣教していく、この地上で証しを立てて行くということがどんなに困難なことか、主イエスは知っておられました。羊をおおかみの中に送るようなもの・・・それは非常に無謀で危険に思えます。ですから、知恵と素直さが必要です。
迫害を受け、捕らえらることがあったとしても、それさえも宣教のチャンスになっていきます。そして、どのような時にも、主が私たちの知恵を越えて、語るべき言葉を与えて下さるのです。それは人々の賞賛を受け、人気を得る道ではないかもしれません。かえって人々に憎まれるかもしれない・・・それでも私たちは主が来られる日まで福音を語り続けるのです。 |
マタイ 10章24〜33節 2012年1月1日 |
それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。(31) 主イエスの弟子として生きる者たちが人々からその信仰のゆえに非難されたとしても、それは不思議な事ではありません。それは私たちの主もまた様々な無理解と非難の中に身を置いてくださったからです。もちろん、信仰以外のことで非難されたり、つまづきを与えないように真実な生き方をしたいと思いますが、主に従う上での非難は甘んじて受けるべきです。私たちは人気を失っても、非難されても、福音を語ることをやめてはいけません。誰かが私たちを黙らせようとして殺したとしても、私たちの魂を殺す事はできません。
また私たちの主は私たちを必ず守ってくださいます。私たちの主は、市場で安く売られているすずめの一羽をも大事に思ってくださるお方です。また、私たちの頭の毛の一本一本にまで配慮を怠らないお方なのです。なおさら、主は私たちの命をその深い御心と、力強い御手の中に守ってくださいます。ですから私たちは誰の前でも主を告白し続けるのです。 |
マタイ 10章34〜39節 2012年1月2日 |
また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。(38) 主イエスを信じるということは、時に、家庭の中での孤立を意味するかもしれません。私たちが信仰を持ち、主に従おうとする時に、それに対する反対が一番身近なところから起こってくることもあるでしょう。37節にある「愛する」とは優先順位を選ぶという問題です。主を愛する人は当然自分の近しい人たちを愛します。けれども、同時に、どんなに近しい親であっても、また息子や娘であっても、主イエスとどちらを優先順位の上に置くかということになった時には、主イエスを上に置くのです。
主イエスは私たちの罪を負い、私たちのためにあがないを全うしてくださいました。私たちは誰かのためにあがないの十字架をになうことはありません。けれども、与えられた重荷や苦しみをにない、自分の命をかけて主に従うということは、特別な人だけではなく、私たち全てに求められている大切なことです。しかし、それは決して孤独な道ではありません。主ご自身が私たちと共に行ってくださるからです。 |
マタイ 10章40〜42節 2012年1月3日 |
わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない。(42) 「主イエスの弟子」というのは必ずしも、その人物が人格的にも成熟した大人物であることを保証しません。人格的にはもっともっと円熟した人物が多くいるでしょうし、また年齢的にも社会的にも多くの経験を積んで、人々の信頼を得ている人たちがいるに違いありません。私たちは、自分たちがどこまでいっても「この小さい者のひとり」にしか過ぎないことをしっかり自覚していたいと思います。
けれども、にも関わらず、私たちが主の弟子であることを認め、それを知りつつ、親切にしてくれる人に対して、その愛の業がどんなに小さなものであったとしても、主イエスは報いてくださるというのです。私たちは自分たちに向けられる小さな愛の業に感謝しつつ、自らも小さな愛の業をもって人々に仕えていく者たちでありたいと思います。その相手が直接報いてくれなかったとしても、主が必ず報いてくださるからです。 |
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