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マタイ 25章1〜13節 2012年3月30日 |
思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。(3〜4) 「忠実な思慮深いしもべ」(二四45)ということを主イエスはたとえを用いて説明されました。まずは「思慮深い」ということです。このたとえに出てくる十人のおとめたちは花嫁の介添人たちだったと言われます。当時の婚礼では、花婿が花嫁の家に来て、花嫁や介添人たちを伴って花婿の家に向かい、そこで婚宴がもたれたと言われます。そして、花婿の一行の到着はしばしば夜になりました。おとめたちがあかりを用意していたことからすると、そのこと自体は予測していたのでしょう。けれども、花婿の到着がさらに遅れて十人は寝入ってしまったのでした。
夜中に花婿が到着した時に、油を用意していた女たちはすぐに出ることができましたが、何とかなるだろうと油を用意していなかった思慮の浅い者たちは、婚宴に間に合わいませんでした。私たちは油を用意していたおとめたちが分けてあげたらよいのにと思ったりします。けれども、この用意は人の分まではできません。自分の用意は自分でしなければならないのです。あなたは用意ができていますか。 |
マタイ 25章14〜30節 2012年3月31日 |
良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。(21) 一タラントは六千デナリ、男性肉体労働者の二十年分の給料にあたる金額です。これだけでもとても大きく、まとまった金額です。主人は一人一人の僕を信頼してそれを預けました。五タラント預けられた人と二タラント預けられた人はそれぞれ出て行って、それを元手に商売をして、預けられたものを二倍に増やしました。主人が帰ってきた時、主人はこの僕たちを喜びます。それは彼らがお金を二倍に増やしてくれたからとか彼らの仕事が成功したからということではありません。主人は彼らが預けられたもの、主人が託した仕事に対して「忠実」だったからです。主人にとってはその五タラント、二タラントはわずかなものでした。そして主人はもっと多くをまかせると言います。
ところが一タラントを預けられた人は、それを地中に埋めてしまいます。確かに主人は損はしませんでした。けれども主人はこの僕を追い出します。この僕は主人を「酷な人」と見ていました。そしてこのような理解の中で、彼は積極的で忠実な生き方を放棄してしまったのです。 |
マタイ 25章31〜46節 2012年4月1日 |
あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。(40) やがて主が王として再臨される時、すべての国民は右と左に分けられます。羊とやぎは遠くから見たらあまり見分けがつかないかもしれません。けれどもその日にははっきりと分けられます。
そして右にいる人には祝福が、左にいる人にはのろいが告げられます。そこで王が右にいる人に言ったのは、自分が空腹の時、渇いていた時、旅人であった時、裸でいた時、病気になった時、そして獄中にいた時、あなたは寄り添って、助けてくれた、ということでした。え、何をおしゃっているのか見当がつきませんというかのようにして、そこに立っている人々に主が言われたのは、「これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」ということでした。小さい者のひとりは王なる主の「兄弟」なのです。
やがて主の御前に立つ時に問われるのは、私たちが主にどのように仕えてきたかということですが、見えない主に仕えるとは、まさに目に見える「これらの最も小さい者のひとり」とどう向き合ったかということなのです。 |
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