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マタイ 9章1〜8節     2011年12月22日

「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」(2)

 1節に「自分の町」とあるのはガリラヤ湖畔の町カペナウムです。イエスがそこで人々を教えておられた時、一人の中風の男が床ごと人々に連れて来られました。昨日読んだ、ガダラ人の地の男たちも自分で自分をどうすることもできなかったのですが、この中風の男も違った意味で自由を奪われていました。けれども、彼の一番の問題は病気で体が動かないということではなく、自分の罪の問題を自分でどうすることもできないということでした。ですから主イエスは、彼におっしゃいます。「子よ、しっかりしなさい、あなたの罪はゆるされたのだ」。それは、歩けなかった人が歩けるようになるよりもずっと難しいこと、ずっと大切なことでした。
 主イエスは、今も私たちに罪の赦しを宣言してくださいます。そして、私たちにその救いを与えるために、主イエスは自らが私たちの罪を負って死んでくださったのです。私たちに求められている事は、この救いを与えてくださる主イエスを信じることなのです。

マタイ 9章9〜13節     2011年12月23日

さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。(9)

 この福音書は昔からマタイが書いたとされています。そして今日の聖書の箇所は、そのマタイがどのように主イエスと出会い、主イエスの弟子となったのかというエピソードです。マタイは取税人でした。取税人はローマに納める税金を、代理徴収していました。ユダヤ人たちはローマの手先のようにして働く彼らを軽蔑していました。また取税人たちが時に、不正なことをしていたことも、彼らに対する人々の憎しみを助長していました。ここでは「取税人や罪人」という呼ばれ方をしています。
 確かに取税人は罪を犯していたことでしょう。けれども、主は、そんな取税人の一人だったマタイに声をかけて、彼を救い、主イエスに仕える者として召してくださったのです。
 私たちもまた知りたいと思います。主は罪人の私たちにも目を止め、声をかけて救いだし、大切な主の業をゆだねて下さるのです。

マタイ 9章14〜17節     2011年12月24日

だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。(17)

 バプテスマのヨハネの弟子たちが主イエスのところに来て、尋ねました。当時の宗教家たちは皆断食をしているのに、なぜ主イエスの弟子たちは断食しないのか、という質問でした。主イエスや弟子たちの生き方は、その当時の人たちからすると、不思議に思うくらい、人々が抱く「宗教家」のイメージとずれていたのでしょう。
 主イエスは質問してきた人たちに、新しい時代が来ていることを告げられます。旧約聖書に約束されていた救い主がすでに来ておられる以上、どうして悲しんでおれよう。今、主イエスがしようとしておられるのは、古い宗教につぎをあてるようなことではないのです。新しいぶどう酒は発酵して古い皮袋ではおさまりません。新しいぶどう酒のためには新しい皮袋が必要です。主イエスの救いのメッセージは古い皮袋、古い宗教的な実践や古いやり方・考え方ではおさまらないのです。一度リセットして、1から主イエスに学ぶ覚悟がここでは必要になってくるのです。

マタイ 9章18〜26節     2011年12月25日

イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。(22)

 このところには二人の人の癒しの話が出て来ます。ひとりは会堂司の娘でした。他の福音書にある平行記事を見ると、この少女は一二歳だったことがわかります。彼女は死んでいたのですが生き返りました。もうひとりは一二年間も長血で苦しむ女です。彼女は宗教的に汚れた者とされ、長く苦しんできました。いろいろな偏見もあったことでしょう。病気が治るのだったらといろいろなことも試みたと思います。けれども、誰も彼女を救うことはできませんでした。けれども主イエスのことを聞いた時に、彼女はそこに一縷の望みを抱きます。けれども婦人病ということもあって、正面から主イエスに近づくことができない中で、彼女は群衆に紛れて、後ろから主イエスに近づき、そのみ衣のふさにさわります。その時に彼女はいやされたのでした。
 主イエスは彼女に、「しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と癒しと救いを確証してくださったのでした。

マタイ 9章27〜31節     2011年12月26日

そしてイエスが家にはいられると、盲人たちがみもとにきたので、彼らに「わたしにそれができると信じるか」と言われた。彼らは言った、「主よ、信じます」。(28)

 主イエスのところに、ふたりの盲人がやってきます。この二人も、主イエスだったら、自分たちの目を開いて下さると信じて主イエスに近づいたのでした。主イエスは二人に、「わたしにそれができると信じるか」と問われました。
 私たちもまた主に期待し、様々な祈りを主にささげることでしょう。けれども主はその時に、私たちにも問われます。「わたしにそれができると信じるか」。私たちは往々にして、求めながらもあまり期待せず、うまくいったら祈りは答えられるかも・・・と言うのです。
 けれども主は今日も、私たちに信じることを求められます。もし、信じることがなかったら、主イエスはご自身の働きをすることができないでしょう。「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」という主イエスの言葉は今も真実です。私たちは本音のところで何を期待し、どうなることを信じているでしょうか。

マタイ 9章32〜34節     2011年12月27日

すると、悪霊は追い出されて、口のきけない人が物を言うようになった。群衆は驚いて、「このようなことがイスラエルの中で見られたことは、これまで一度もなかった」と言った。(33)

 悪霊は、人間の中に働いていろいろなことをします。ここに一人の口をきけない人がいました。聖書はこの人が口をきけなかったのは悪霊のせいだったといいます。もちろん、すべての病気が悪霊の仕業というわけではありません。実際には他の原因で病気になることの方が多いでしょう。
 私たちはしゃべることができるでしょう。けれども、なんとしばしば、いらないことはいくらでもしゃべれるのに、人を生かす言葉、愛と赦しの言葉、また主イエスにいただいた恵みを証しする言葉が出てこないことでしょうか。
 主イエスは彼の中にいた悪霊を追い出してくださいました。人々は今までにこんなことはなかったと言います。そうです。主イエスのようなお方はそれまでもそれからもいません。主イエスがだけが私たちにすばらしい救いをもたらすことのできる力あるお方なのです。

マタイ 9章35〜38節     2011年12月28日

収穫は多いが、働き人が少ない。(37)

 主イエスはじっとしているのではなく、町々村々を巡り歩いていかれました。そして主イエスがなさったのは、「教え」(諸会堂で教え)、「宣教」(御国の福音を宣べ伝え)、「力ある業」(あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった)でした。
 主イエスを突き動かしていたのは、人々に対する愛であり、深い憐れみでした。人々を「飼う者のない羊のように弱り果てて倒れている」とごらんになったのです。本来、民を導くべき指導者たちは民のことを顧みない・・・そのような中で、弱り切っている人々の姿を主イエスは見ておられました。そして、彼らに寄り添い、彼らを助け、彼らを養い、導かれたのです。
 そして、主は弟子たちに言われました。「収穫は多い」。けれども「働き人が少ない」。収穫のために働く人がもっと必要です。もっと働き人がいないと追いつかないのです。主イエスがおっしゃったように、働き人が送られるように、祈り求めましょう。また主があなたに求めておられることを精一杯させていただきましょう。


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