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マタイ 23章1〜12節 2012年3月16日 |
だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。(3) 主イエスに対してどんな問いを投げかけても、またどんな巧妙に言葉のわなにかけようとしても誰も成功しません。かえって主イエスに問題を投げかければ投げかけるほど、主イエスを信じないではいられなくなってきます。彼らは主イエスを信じるという決断をするよりは、口を閉ざすことを選択します。
そして、今度は主イエスが律法学者やパリサイ人たちについて口を開き、弟子たちや取り巻く人々に警告を与えられます。今の時代には直接的な意味でパリサイ人はいないかもしれませんが、パリサイ的なものは今も巧妙に私たちにまとわりつこうとします。
主イエスは、彼らが正しいことを語っていることは認めておられます。問題は正しいことを知っているのに、そして教えることまでできるのに、人々に要求することまでするのに、自分たちではそのように生きていないということでした。私たちは正しいことを知っているでしょうか。そしてそのように生きているでしょうか。 |
マタイ 23章13〜15節 2012年3月17日 |
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。(13) 主イエスはますます強い口調で律法学者・パリサイ人たちを批判されます。これは悪口や単なる批判ではありません。これは主イエスの回りにいる人々への警告であり、またパリサイ人たちに悔い改めを迫るものでした。
パリサイ人たちは天国を閉ざして入らないし、人々にも入らせない・・・主イエスが救い主として来ておられるのに、信じることをせず、また信じようとする人々を入らせないのです。
彼らは確かに真面目だったかもしれません。けれども天国は、主イエスを信じる者に開かれます。ところがこの時には彼らはイエスをメシヤ、キリストだと告白する者は会堂から追い出すと宣言していました。彼らは熱心だったでしょう。けれども彼らの熱心は人に見せるため、賞賛されるためでした。彼らは聖書の神を伝えました。けれども、彼らは自分の力で救われるかのように考える「改宗者」を生み出すだけでした。主イエスが求めておられたのは全ての人が悔い改めて、信じることだったのです。 |
マタイ 23章16〜22節 2012年3月18日 |
盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。(16) 主イエスはここで律法学者・パリサイ人たちを「盲目な案内者たち」と言いました。彼らは人々の「案内者」であると自負していました。まさに無知な民衆たちを教え導く者だという思いがあったでしょう。けれども、主イエスは、彼ら自身が見るべきものを見ていないと非難されます。
彼らは神の御言を大きく曲げていました。誓いの時、神殿を指して誓うならそのままでよいが、神殿の黄金を指して誓うなら果たさなければならないとか、祭壇を指して誓うならそのままでよいが、その上の供えものを指して誓うなら果たす義務がある、といった具合です。今の私たちには滑稽なへりくつにしか聞こえませんが、彼らは真面目にそのようなことを論じ、自分のしていることを正当化しました。
そのような中で、神殿の中に住んでおられるお方、神の御座に座しておられるお方が見えなくなっている、忘れられている・・・これは深刻な状態でした。 |
マタイ 23章23〜24節 2012年3月19日 |
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。(23) 主イエスの時代の宗教家たちはある意味、非常に真面目で真剣でした。そして十分の一献金も厳格に守りました。それはそれで大事なことです。けれども、ある意味、小さな事に対して非常に几帳面になっているにも関わらず、もっと重要なことを見逃している、忘れている、と主イエスは指摘されます。もっと重要なこと、そして律法の背後に、その土台としてあるべきもの、それは公平とあわれみと、忠実でした。
公平とは正しい判断・正しい裁きです。それはかたよりみることをせず、いつも同じ基準で自分に対しても人に対しても向かっていきます。あわれみとは人々に対する思いやりであり、人々の痛みを共感し、助けが必要な人を具体的に助けることです。そして忠実は、神が自分に託してくださっていることを喜びをもって誠実に果たしていくことです。
表面的なこと、枝葉末節的なことだけではなく、もっと重要なものを見逃すことのないようにしたいと思います。 |
マタイ 23章25〜28節 2012年3月20日 |
盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。(26) 律法学者・パリサイ人たちに対する非難の言葉が続きます。今日の箇所の器のたとえと、白く塗った墓のたとえで痛烈に批判されているのは、彼らが人の目から見えるところには気を遣い、また敬虔そうなポーズをしながら、人の目から見えない部分には、貪欲と放縦、あらゆる不潔なもの、偽善や不法がいっぱいだということでした。
私たちは人の目を気にします。当然のことですし、必要なことです。ただ、外側をきよめたり、飾ったりすること、人からどう見られるかということにばかり気を遣い、人の賞賛ばかりを求めて、自分の内側、神の前に、神と自分にしか見えないところで神が自分をどう見ておられるかということに無頓着・盲目であったとしたら、恐ろしいことです。
「まず杯の内側を」と主イエスはおっしゃいました。人の心を見る主に自分の真相を知らせていただき、自らの内側をきよくしていただきたいと思います。 |
マタイ 23章29〜36節 2012年3月21日 |
あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。(29〜30) イエスの時代の宗教家たちは、過去に生きた預言者や義人たちの墓や記念碑を建てて、その業績をたたえました。しかし、それらの偉人たちは、その地上の歩みの間は報われることなく、殉教した者たちも多かったのです。
ところが、律法学者やパリサイ人たちは、自分たちがその時代に生きていたら、先祖たちと同じ過ちを犯さなかっただろうと断言していたのでした。彼らは自分たちが預言者たちを殺した者たちの末裔であることを自ら認めていました。そして、先祖たちと同じ轍は踏まないと断言していた彼らが、神の子イエス、救い主として来て下さったお方を十字架で殺してしまうのでした。
人のことはいろいろ言うことができるでしょう。過去の過ちを断罪することもできるでしょう。けれども自分が第三者的な立ち位置に立って人を批判しているとしたら、私たちも主イエスに「偽善者」と言われた人々と同じ大きな罪を犯そうとしているかもしれません。 |
マタイ 23章37〜39節 2012年3月22日 |
ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。(37) 主イエスは、「ああ、エルサレム、エルサレム」と嘆きの声を上げられました。神はその町を愛しておられました。けれども、彼らは主を退け、拒んだのです。それでも神は何度もエルサレムに預言者たちを送り、人々を悔い改めに導こうとされました。それは神が、その町を愛しておられたからです。それはちょうど、めんどりがそのひなを自分の翼の下に集めようとするかのようでした。しかし、彼らは神の愛の招きを退けました。
主イエスもその町で死のうとしておられました。けれども主イエスはその町のために嘆きの声を上げられます。主はエルサレムが荒廃してしまうのを知っておられました。けれども同時に、やがて「主の御名によって来る者に栄光あれ」と人々が主を迎える日が来る、主イエスはそのことも見通しておられます。私たちは罪のもたらす結果の恐ろしさを知らなければなりません。しかし、同時に、主の選びとあわれみの大きさをも思います。 |
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