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ヘブル 13章1〜4節     2014年9月5日

兄弟愛を続けなさい。(1)

 ここでヘブル人へ手紙の記者は、具体的ないくつかの勧めをします。「兄弟愛を続けなさい」・・・主に愛され、主を愛するお互いの間で愛し合うことができなかったら、私たちはどのようにして神の愛をこの世に示していくことができるでしょうか。「旅人をもてなしなさい」・・・他の国や他の土地から旅してくる人たちを愛をもって受け入れ、もてなすことは時に天使をもてなし、また主イエスをもてなすことにもつながります。もちろん、日本の住宅事情や社会・文化の中で受け入れられること、受け入れられないことがあるでしょう。しかし、立場の弱い人を受け入れ親切にすることは主が私たちに期待しておられることです。「獄につながれている人たちを思いやりなさい」・・・これは自分が悪いことをして捕らわれているというよりも信仰のため・正義のために苦しんでいる人たちのことを心にかけるということです。「結婚を重んじるべきである」・・・性の乱れや結婚の軽視は今に始まったことではありません。罪を犯さないという以上に、今与えられている(または将来出会う)パートナーを大切にするということです。

ヘブル 13章5〜6節     2014年9月6日

だから、わたしたちは、はばからずに言おう、
「主はわたしの助け主である。
わたしには恐れはない。
人は、わたしに何ができようか」。(6)

 「金銭を愛することをしないで」とヘブル人への手紙の記者は言います。私たちは目に見える金銭に頼りがちです。そして金銭がないと不安になったり、恐れたり、心配になったりします。また金銭はどれだけあっても満足できないものです。「もっともっと」「まだ足りないまだ足りない」と思うのです。私たちは気をつけたいと思います。ともすると金銭が、私たちの心の神が座すべき場所をも占領してしまうことがあるからです。
 私たちは、私たちといつも共にいて、私たちを決して見捨てることのない主に、どんな中にあっても本当に私たちを助けることのできるお方に、すがって歩んでいきたいと思います。お金が悪なのではありません。与えられた金銭を感謝して受け、与えられたもので満足することを学び、それを正しく管理し、使えばいいのです。私たちは富にすがって生きるのではなく、日々必要を与え、楽しませてくださる主に信頼して生きるのです。

ヘブル 13章7〜16節     2014年9月7日

きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。(14〜15)

 「神の言を語った指導者たちのことをいつも思い起こしなさい」とこの記者は語ります。その言葉を忘れないようにということだけでなく、その生活、特に、どのようにその人がその生涯を閉じていったかという、その最期を見てならうようにと言います。信仰の歩みを最後まで貫くということは決して当たり前のことでありません。そこに、その指導者たちの「信仰」があったはずです。彼らが見つめ、従っていった主イエスは彼らだけではなく、私たちをも支えることがおできになります。
 主イエスに従って生きるということは決して、いつもスポットライトの当たるところにいるということではないでしょう。主イエスがそうであったように門の外に追いやられて苦難を受けるようなところを通ることもあるに違いありません。しかし、地上に望みを置くのでなく、来たらんとする永遠の都に望みを置く私たちは、どんな中にあっても賛美の実にあふれて生きることを許されているのです。

ヘブル 13章17〜18節     2014年9月8日

わたしたちのために、祈ってほしい。わたしたちは明らかな良心を持っていると信じており、何事についても、正しく行動しようと願っている。(18)

 このヘブル書の記者は、再び神に立てられた教会の指導者に従うべき事を語ります。しれは指導者にはそれだけの責任が神から負わされており、指導者たちがその責任をより良く果たすことがお互いの益になるからです。教会の指導的な立場にある人は、単に管理者として、人々をまとめるというだけでなく、祈り手として人々のことを神の御前に持ち出し、とりなすことが求められているのです。
 けれども同時に、この記者は読み手たちに対しても、「わたしたちのために、祈ってほしい」と求めます。教会の奉仕者たちは兄弟姉妹たちのために祈ります。そして同時に、兄弟姉妹たちも指導者たちのために祈る・・・主の助けなしに、祈りのサポートなしにその働きを全うし、信仰の歩みを貫くことができるほど、私たちは強くありません。あなたも祈られています。そして、あなたも祈る責任が与えられています。

ヘブル 13章19〜25節     2014年9月9日

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神・・・(20)

 ここで記者は、主イエスを「永遠の羊の大牧者」と言います。神を羊飼いにたとえるのは、旧約の時代からのイスラエルの伝統でした。ダビデ王も、「主は私の牧者」と言いました。いつも共にいて豊かな養いを与え、敵が襲って来る時にも身をていして私たちを守ってくださる、それが私たちの主です。主イエスご自身もまた、「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃいました。まさにこのお方は私たちのために十字架で血を流し、私たちのために新しい契約を打ち立ててくださいました。そして、このお方は単に私たちを救ってくださっただけでなく、私たちが神の御旨を行って生きるために必要なすべてのものを私たちのために備え、与えてくださるお方なのです。
 この記者はもう一度、勧めの言葉を書き、挨拶と「恵みが、あなたがた一同にあるように」との短い祝福の祈りをもってこの手紙を閉じます。この記者はまさに、この手紙の読み手たちが主イエスの恵みに成長し、その恵みに立ち続けていくことを期待し、信じて祈るのです。



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