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ヘブル 12章1〜2節 2014年8月30日 |
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。(2)
私たちは、先に信仰の歩みをして主の御許に帰った多くの信仰者たちに雲のように囲まれています。彼らは信仰の証人たちです。神の約束を信じ、信頼して歩む時に、神は真実でいてくださるという証人であり、主が確かに私たちのために天のふるさとを備えていてくださるということの証人でもあります。彼らは地上の歩みを終えて、天の御国に移され、私たちを雲のように囲みながら声援を送っています。
私たちはそのような声援の中で、自分に与えられた競走を走り抜くのです。競技をする時に多くの荷物を背負ったままではそれをすることができませんし、また、足
に何かがまとわりついたままでは競走に勝つことはできないでしょう。私たちは罪から離れ、また自分が信仰の歩みをするのに妨げになるものから離れて、ただ主イエスを仰ぎつつこのレースを走って行きます。この主イエスこそが信仰の導き手・創始者であり、また私たちのうちに与えられた信仰を完成してくださるお方だからです。
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ヘブル 12章2〜4節 2014年8月31日 |
彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。(2)
私たちの信仰の導き手であり、その完成者である主イエスはどのようなお方なのでしょうか。主イエスは神の子であられたのに人になってこの世に下り、罪人たちの反抗をも耐え忍び、恥をもいとわないで十字架を忍んでくださいました。このお方は私たちの救いという大きな喜びを見ておられたのです。そして、今、このお方は神の御座の右に座しておられます。
私たちはこのお方を仰いで信仰に生きる者として、この戦いを戦っていきます。それは罪との戦いでもあります。私たちは、案外、罪と真剣に取り組んでいません。取り組む前にあきらめ、妥協し、様々な言い訳を考えるのです。最初から戦う気などないのです。
私たちは弱り果てて意気そそうしし、自分が戦うべき戦い、走るべき競走を投げてしまわないためにも、イエスを見つめます。イエスはすでに勝利をとってくださり、信じる者にも勝利を約束してくださるからです。
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ヘブル 12章5〜11節 2014年9月1日 |
肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。(10)
私たちの歩みに様々な戦いがあり、苦難や試練の中に置かれるとき、望んでいない多くの困難の中を通らなければならないとき、私たちは、ともすると、自分は神から見捨てられたのかもしれないと思ったり、なぜ神は自分を守ってくださらないのだろうかと、神の愛や全能を疑いたくなります。しかし、聖書はそうは言いません。私たちが試練の中を通るとき、それは主の訓練なのです。それは神が私たちを愛し、子として扱っておられる証拠です。
そのような困難の中にあって、私たちは鍛えられ、神のきよさにあずかる者とされ、平安な義の実を結ぶ者へと変えられるのです。もちろん、試練を求める必要はありませんし、自ら誘惑の中に飛び込むようなことをしてはいけません。けれども、もしそのような状況に置かれることがあったら、私たちを愛し、支え、造り上げることのできる主に信頼して、真実に生きる者でありたいと思います。
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ヘブル 12章12〜17節 2014年9月2日 |
すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。(14)
信仰のレースにおいても、手やひざがしっかりしているということはとても大事なことです。手というのは、主に向かって上げて祈るために用いられ、また具体的に主に仕え、人々に仕えるためにとても大事です。また、ひざが弱っていたら、神が示されるところに進むことが困難になります。私たちは主に祈りつつ、整えられ、自らきよくなるように努める必要があります。きよめは神の御業です。しかし、同時に私たちはきよい歩みをしたいという願いを持ち、その決断を日々繰り返していく必要があります。罪の中にとどまりながら、きよい歩みはできないからです。私たちのきよい歩みは、私たちがやがて神を見る望みに生かします。またもし、私たちがきよい歩みを放棄してしまったら、多くの人々が汚れた歩みの中に引き込まれてしまうかもしれません。きよきを求められる神は、きよきを与えられる神でもあります。信頼して主に近づきたいと思います。
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ヘブル 12章18〜24節 2014年9月3日 |
しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス・・・(23〜24)
18〜21節で描かれているのはかつて、モーセがシナイ山で神とお会いし、十戒をいただいた時のことです。シナイ山に主が下られた時、山は震い動き、モーセの他誰も山に近づくことは許されませんでした。そのことを通してイスラエルの人々が神は恐るべき聖なるお方、私たちが近づきがたいお方であることを知らされたことでしょう。
しかし、新しい契約の下にあって、罪赦された私たちが近づいているのは、天にあるシオンの山、新しいエルサレムです。数え切れないほどの天使たちが神をたたえ、主に選ばれ、命の書に名を記された人々が集う場所に、私たちは近づいているのです。そこには、裁き主なる神がおられます。しかし、私たちはびくびくしながら不安と戸惑いの中で主に近づくのではありません。新しい契約の仲保者であられる主イエスがそこにいて、私たちを迎えてくださるからです。私たちはそのような場に喜びをもって近づいているのです。
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ヘブル 12章25〜29節 2014年9月4日 |
このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。(28)
主がモーセに律法を与えられ、そしてイスラエルの民が神と契約を結んだ時、シナイ山は神の御声によって震えました。神はもう一度、地を震われると言います。そして、その時には、地だけではなく、天も震われるのです。目に見えるものは過ぎ去っていきます。そして、震われないものが残っていくのです。過ぎ去っていくものにすがり、それを目当てにして進むのは愚かなことです。しかし、神が私たちに約束してくださったのは震われない国です。
イスラエルの民は、せっかくエジプトの地を出て、約束の地に向かっていたにもかかわらず、神に信頼することを拒み、その御声に背いたために祝福の地に入ることができませんでした。ましてや、震われない国を目指して歩むお互いは、主を畏れ、喜びと感謝をもって、このお方に仕えていきます。私たちは語っておられるお方の御声を拒むことのないように気をつけたいと思います。
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