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ヘブル 10章1〜10節     2014年8月5日

この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。(10)

 律法は後から来るものの影であり、型ですから、毎年毎年、いけにえがささげられても、みまえに近づく者たちを全うすることはできませんでした。動物の血には本当の意味で罪を除き去ることはできず、罪の自覚は残り、またいけにをささげるたびに、罪の思い出がよみがえってくるのです。
 しかし、主イエスは人となってこの地上を罪のないお方として歩み、神のみこころを全うしてくださいました。そして、詩篇四十6〜8にあるように動物のいけにえではなく、ご自身のからだをささげてくださったのです。それによって、私たちのためのあがないのわざが全うされ、つみのゆるしときよめをいただくことができるようにされました。
 私たちはもはや律法の行いや、動物のいけにえをささげることによって救われるのではありません。律法によっても、動物の血によってもできなかったことを、キリストは私たちのためにしてくださったのです。

ヘブル 10章11〜18節     2014年8月6日

彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。(14)

 祭司は人々のために毎日動物のいけにえをささげました。旧約の律法においては罪を犯した人は、それが故意であったときはもちろんのこと、それがわざとでなかったとしても、気づいたときには、動物の血を携えて神に近づかなければなりませんでした。けれども、そのようないけにえは人間を罪から自由にすることはありませんでした。人は本当に罪を赦されたという確信を得ることはできず、また罪を繰り返し犯し、いけにえも延々と繰り返されなければなりませんでした。
 しかし、主イエスはすべての人のすべての罪のために、ただ一度、ご自身をささげてくださったことにより、私たちに罪のゆるしときよめを与え、また「きよめた者たちを永遠に全う」されました。神が、キリストのあがないによって私たちに与えてくださった罪のゆるしにおいては、単に赦すどころではなく、思い出すことをしないほどに徹底的にゆるしてくださるのです。キリストのあがないのゆえに、もうこれ以上、罪のあがないは必要なくなったのです。

ヘブル 10章19〜25節     2014年8月7日

わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができる(19〜20)

 主イエスが来られるまでは、大祭司であっても軽々しく聖所の奥の間である至聖所に入ることはできませんでした。民を代表する大祭司であっても、ただ一年に一度、しかも動物の血を携えて、という条件をつけて、近づくことを許されたのです。
 しかし、私たちは、主イエスが十字架の上で流してくださったあがないの血によって、キリストのからだという幕を通って何の遠慮もなく、神に近づくことができます。キリストのあがないによって罪赦された私たちは、自責の念にいつまでも縛られていることはありません。信仰の確信に満たされ、喜びをもって神に近づくことができるのです。
 私たちは、自分たちが信じる望みを公に言い表しつつ、愛と善行に励みます。共に集まり励まし合いつつ歩んで行きます。それは私たちに約束されている望みが実現する時が近づいているからです。そして、その約束をしてくださった方は真実な方だからです。

ヘブル 10章26〜31節     2014年8月8日

もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。(26)

 ヘブル書の記者が心配していることがありました。それは主イエスのあがないを知り、そのすばらしい救いを経験しながら、罪を犯し続けたり、恵みから離れていく者たちがいたからです。彼らは礼拝や学びに集うことを面倒でどうでもよいこととし、また霊は救われているけれども、肉体は汚れているので罪を犯してもしかたがないと開き直って、それが罪だと分かっていても、古い生き方を続けていました。
 この手紙の書き手はこういった人々に対してとても厳しい言葉で警告します。もちろん、この記者はそういう人々は滅んでしまったら良いのだと言っているのではありません。人々が悔い改めて、立つべきところに立つことを願っているのです。
 キリストの血以外に私たちを救うものはありません。そのキリストのあがないを、その恵み深さを知りながら、それを拒み、背を向けてしまったら、他にはどこにも救いはないのです。

ヘブル 10章32〜39節     2014年8月9日

だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。(35)

 今日の箇所では、ヘブル書の読者たちがどんなに厳しい迫害の中に置かれていたかということが明らかにされています。彼らは初めの頃、苦しい大きな信仰の戦いを経験しました。そしられたり、辱められたりすることもありました。また信仰のゆえに自分の財産を失うこともありました。しかしそのような中にあっても彼らはそれを忍び通しました。嫌々ながら仕方なくということではなく、まさに喜んで、そのような試練の中を歩んでいたのです。それだけにこのヘブル書の記者はこの手紙を書いている時の読者たちの歩みをとても心配しています。彼らの中のある者たちが、信仰の歩みから離れてしまっていることがとても悲しくつらかったのです。
 神の御旨を行って、約束のものを受けるためには忍耐が必要であることを記者は知っています。そして、そこに苦しみがあり、また困難があっても、私たちが信じ、確信していることは、私たちに大きな報いをもたらすのです。


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