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ローマ 15章1〜6節 2013年10月25日 |
わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。(1) もし、私たちが自分は強いと思うなら(あなたが誰かに対して「あの人はしようがないなあ」という思いを抱くとしたら、あなたは強い人です)、あなたは自分の周りにいる強くない人の弱さをさばき、こき下ろすのではなく、その人の弱さをになうべきです。自分がうれしくなり、自分が満足するような結論を求め、そのような生き方をするのではなく、隣り人の益をはかり、人を喜ばせ、人の徳を高める決断をし、そのような行動をとるべきです。
パウロはここで、主イエスの模範にならうようにと勧めます。主イエスもまた、自分が楽な道、得をする道、自分を喜ばせる道は選ばれなかったのです。
そして、私たちがお互いに弱い人の弱さを担いながら歩んでいくとき、そこにすばらしいハーモニー、調和が生まれ、弱い者も強い者も、同じ思い、一つの心、合わせた声となって、共に主イエス・キリストの父なる神をあがめるようになるのです。
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ローマ 15章7〜13節 2013年10月26日 |
こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。(7) 私たちはお互いの弱さを責め合い、さばき合うのではなく、互いに受け入れ合うのです。人間関係の問題は昔も今も変わりません。またクリスチャン以外の世界だけでなく、教会の中でも起こりうるのです。自分の考え方や行動を「信仰的」と自慢し、自らを正義として、他者を批判するとき、それは人をおとしめ、教会に分裂をもたらすことになります。
大切なのは弱さの中にある人を受け入れることです。私たちがお互いに受け入れ合っているとき(それは相手の完璧さを認めると言うことではありません。その人に欠けや弱さがあってもそのまま受け入れるということです)、そこに神の栄光があらわされていきます。
そして、私たちは覚えていなければなりません。それは主がまず、欠けだらけで弱く、また罪深い私を受け入れて下さった、こんな私のしもべとなってくださった、ということなのです。
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ローマ 15章14〜21節 2013年10月27日 |
わたしは・・・キリストの福音を満たしてきた。その際、わたしの切に望んだところは、他人の土台の上に建てることをしないで、キリストの御名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝えることであった。(19〜20) パウロはこの手紙をまだ会ったことのないローマにいるクリスチャンたちに向けて書きました。その内容は時に深く、時に厳しかったと思います。しかし、それはローマのクリスチャンたちを非難したり、辱めようとしたものではなく、彼らに神の恵みを知って欲しかったからです。パウロはまさに異邦人に福音を伝え、彼らが神に対して従順な歩みをすることができるようにと励ますために召されていました。それがパウロの喜びであり、パウロに与えられている使命でした。
そしてもう一つ、パウロが願っていたのは、まだ教会がない町々、国々、民族に福音を伝えて行くということです。まだ人々が主イエスのことを知らない町々に行って、伝道したいと願っていたのです。まだ主イエスの福音にさえ触れたことのない人たちが、実は私たちのまわりにも大勢います。いったい誰がその人たちに福音を伝えるのでしょうか。
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ローマ 15章22〜29節 2013年10月28日 |
たしかに、彼らは賛成した。しかし同時に、彼らはかの人々に負債がある。というのは、もし異邦人が彼らの霊の物にあずかったとすれば、肉の物をもって彼らに仕えるのは、当然だからである。(27) まだ福音が伝えられていないところに行って福音を伝えたい・・・そのような願いをもったパウロはローマだけでなく、その向こうのイスパニヤにまでも行きたいと願っています。イスパニヤ(スペイン)は当時考えられていた地の果てでした。まさにパウロは世界に福音を満たしたいと思っていたのです。
しかし、今、この手紙を書いている時には、パウロはエルサレムに行こうとしています。それは異邦人教会から預かった献金をエルサレムの貧しいクリスチャンたちに届けるためでした。パウロは、「異邦人たちはそのことに賛成した。しかし、異邦人たちはイスラエル人たちから、霊の遺産・その祝福をいただいたのだから当然だ」とします。つまり異邦人はイスラエル人に支えられ、イスラエル人もまた異邦人たちに支えられる・・・まさにパウロは和解の福音を実践し、異邦人とイスラエル人の間に愛の交わりを立て上げようとしていたのです。
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ローマ 15章30〜33節 2013年10月29日 |
兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストにより、かつ御霊の愛によって、あなたがたにお願いする。どうか、共に力をつくして、わたしのために神に祈ってほしい。(30) パウロはこの手紙を締めくくるにあたって、まだ訪ねたことのないローマにある教会の兄弟姉妹たちに祈りの要請をします。確かにパウロは教師であり、偉大な宣教者であり、一世紀のキリスト教会の歩みの中でとても重要な働きをした人物です。しかし、その「先生」であるパウロが祈ってほしいと求めます。
パウロの祷告課題はユダヤにいる反対者たちの手から自分が守られるように、またエルサレムでの奉仕が現地のユダヤ人キリスト者たちに受け入れられるように、また自分がローマに行きたいという願いがかなえられるようにということでした。ある意味、パウロはこれから進もうとしているエルサレムへの道に多くの困難が待ち受けていることを知っていました。そして、彼は自分の働きが神の助けなしになし得ないものであること、そして心を合わせた祈りこそが神の御手を動かしていくものであることを知っていたのです。
あなたも誰かに、自分のために祈って欲しいと求めてみませんか。
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