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ローマ 7章1〜6節 2013年9月16日 |
あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが・・・死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。(4) 律法は「○○せよ」とか「○○するな」と私たちに語ります。しかし、「○○せよ」と言われるとしたくないと思いますし、「○○するな」と言われるとしたくなります。律法は、神に背きたいという罪の欲情をかき立てるのです。そして、律法はそれに背く私たちに、死を宣告します。律法の支配の下で、私たちが義と認められることは決してありません。私たちは自分の行為や良い性格で自分を救うことはできないのです。
しかし、私たちが十字架によってキリストの死に合わせられるときに、私たちは自分を縛っていた律法から解放され、キリストのものとされます。そして律法によってではなく、新しい霊によって神に仕えるものへと変えられるのです。私たちは日々、死のために実を結ぶのではなく、神のために実を結ぶものへと変えられます。自分の努力や決心でできなかったことを、神は聖霊によって私たちの生涯の中に成し遂げてくださるのです。
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ローマ 7章7〜14節 2013年9月17日 |
なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。(11) 律法によってかえって罪の欲情がかき立てられ、私たちが死のために汚れた実を結んでしまうとしたら、律法は罪なのでしょうか。いいえ、律法は神がその民のために与えられたいのちの道であり、神の御旨を私たちに指し示すものでした。律法は霊的なものであり、聖なるもの、正しく、かつ善なるものです。
しかし、神が律法を与えられ、神が私たちに願っておられることがはっきりしてくるとき、罪は私たちのうちに働いて、その神の律法に背かせるのです。その結果、律法が与えられたことによって、ますます罪を犯してしまうという。神が願っておられたこととは逆のことが起こっています。罪は律法を足がかりとして、私たちを神に背かせ、私たちを死に導いてしまったのです。
律法は良いものです。しかし律法の行いによって義とされるかというと、そうではありません。かえって人間の罪深さが明らかにされ、またそれが増幅され、いのちではなく死が宣告されてしまう。大事なことがあります。律法を見つめ、自分の罪深さを知って、神に救いを求め、神にすがることなのです。
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ローマ 7章15〜25節 2013年9月18日 |
わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。(24) 神を知っていたら、神を信じたら、神がどんなに恵み深いお方であるかを知ったら、当然神に従い、その御心のうちを歩んでいきたいと願うはずです。自ら進んで罪を犯したいとは思わないでしょう。
けれどもパウロは、自分は善をしようという意志があり、またそうしたいと欲しているけれども、それをする力がなく、かえって自分が欲していない悪を行っていると言います。そのような中でパウロは「自分のしていることが分からない」と語り、また「なんというみじめな人間なのだろう」と叫ぶのです。
パウロはここで「わたしのうちに宿っている罪」と言います。つまり自分があれをしたこれをした、という個々の罪と共に、自分の内に、自分を神に従わせない、罪の性質、罪の親玉のようなものが宿っていて、それが私を縛り付けて、神の御旨に従うことができないようにさせている・・・知って下さい。この「罪」の問題も主は解決してくださったのです。
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