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ローマ 10章1〜4節 2013年10月5日 |
兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。(1) まさにイスラエルの民は、このお方に寄り頼むなら決して失望することはない、というイエス・キリストにつまづいてしまいました。イスラエルの人たちは自分の義を立てようと努力しました。それはまさに、主イエスと出会う前のパウロの生き方でした。しかし、神が願っておられたのは、救い主イエス――旧約聖書の約束していたメシヤなるお方――を通して立てられ、与えられる神の義を信仰をもって受け入れることでした。
私たちの努力や修練は私たちを義とすることはできません。私たちを義とするのは十字架・復活の主イエスを救い主と信じる信仰だけです。このキリストにつながるときに初めて、私たちは律法を全うすることができるのです。
パウロは今なお福音を拒んでいるイスラエル人たちのことを深く思っています。彼の祈りはまさにイスラエルの人々の救われることでした。私たちの心の願い、神にささげる祈りは何でしょうか。
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ローマ 10章5〜13節 2013年10月6日 |
すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。(9) 私たちはどのようにして、信仰による義を自分のものとすることができるでしょうか。天に上らなければならないでしょうか。底知れぬ所に下らなければならないでしょうか。いいえ、この信仰の言葉はすでに私たちのすぐ近くにあります。大事なことは、与えられている信仰の言葉に従って、心で信じ、口で告白するということです
信仰は心で信じることが必要です。外側だけ、まるで信仰をもっているかのように取りつくろうのではありません。神は私たちの心の真実を求めておられます。同時に、心で信じているといって、信じていることを自分の内心の問題として隠してしまってはいけません。私たちは、イエスは主である、と口で告白するのです。
ローマでは、皇帝が自分のことを主とし、自分のための神殿を作って、礼拝させました。そのような中で、イエスは主、と告白することは勇気のいることでもあったと思います。しかし、そのように主を信じる人を神はすべて救ってくださるのです。
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ローマ 10章14〜17節 2013年10月7日 |
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。(17) けれども、どのようにして、私たちは神を信じる者へとされていくのでしょう。福音を聞くということです。「聞く」ということは、単に耳で聞くということだけではなく、聞いて従う、ということも含んでいます。しかし、私たちが聞くためには何が大切なのでしょうか。誰かが本物の福音を、キリストの言葉を宣べ伝えてくれることです。
そしてこの信仰は、単に主イエスを信じるスタートだけでなく、その後の信仰の歩みにおいても真実です。私たちはキリストの言葉を聞いて、信じて、従うのです。
さて、そして、私たちにはまた与えられている信仰に生きると共に、まだ主イエスの言葉を聞いたことがない人たちに福音を宣べ伝えるという大切な仕事があります。もちろん、聞いた人がすべて信じるわけではないでしょう。しかし、誰かが福音を宣べ伝えてくれなければ、その人たちは福音を聞くことがないし、信じることもできないからです。
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ローマ 10章18〜21節 2013年10月8日 |
しかしわたしは言う、彼らには聞えなかったのであろうか。否、むしろ「その声は全地にひびきわたり、その言葉は世界のはてにまで及んだ」。(18) 聞くことがなければ信じることはできない、とパウロは言います。しかし、人々は聞いていなかったのでしょうか。いいえ、パウロはここで詩篇十九4を引用し、神の言葉は全地に響きわたり、世界の果てにも及んでいると言います。詩篇十九篇では直接的には、神の造られた世界がそのように語っているというのですが、パウロは人々が実は聞いていなかったと言い訳はできないのだ、と言います。
またユダヤ人たちに対してはどうでしょうか。神は異邦人たちにあわれみを向けることによって、イスラエル人たちの目を覚まさせようとしておられました。そして、同時に、神はどれほどイスラエルの民が背き続けてもなお、その民に対して愛のみ手を伸ばし続けておられたのでした。
神は今も、語っておられます。神が語られるみ声をしっかり聞き、信仰をもってお応えするお互いでありたいと思います。
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