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ローマ 5章1〜5節 2013年9月9日 |
このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。(1) 私たちは信じることによって義とされました。そのことによって、私たちと神との間に平和が与えられたのです。そして、私たちは神の栄光にあずかる希望を持つ者とされました。私たちの歩みには様々な苦難があり、患難があるでしょう。しかし、私たちに与えられている希望を誰も奪い取ることはできません。なぜなら患難さえも私たちに忍耐を、錬達を与え、希望につながるからです。
そしてここで生まれる希望は決して失望に終わりません。なぜなら、神の愛が私たちに注がれていることを、私たちは聖霊によって知っているからです。
神の愛とは、私たちが不信心で、罪人で、神の怒りの下にあり、神に背を向けて、神の敵として歩んでいたにも関わらず、そのような私を全部ご存じの上で愛し、キリストが私たちのために死んでくださったというところにあらわされています。私たちは、このお方によって救いを与えられ、神を喜ぶのです。
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ローマ 5章6〜11節 2013年9月10日 |
しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。(8)
私たちは、ともすると神に愛されるためには相当頑張らないといけないと考えます。すると、失敗したときには、「自分はまだまだだめだ」「自分は神に愛される資格はない」と考えたり、「自分は努力していい線行っている」と誇ったり、「それにしてもあの人はダメだ」と人を見下げたりします。
しかし、私たちはもう一度振り返り確認したいと思います。神が私たちを愛してくださったのは、私たちが人格的にも道徳的にも信仰的にもとても優れた存在だったからではありません。私たちがまだ弱く、不信心で、罪人で、神の敵として歩み、神の怒りの下に置かれていた時に、神はそんな私たちを愛して、そのひとり子イエスを遣わしてくださいました。そして、この主イエスはそんな私たちのために死んでくださったのです。愛されるはずのない、そんな資格のないものを神は愛してくださって、神との和解の道、救いの道を開いてくださいました。私たちはこの神を喜ぶ者へと変えられたのです。
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ローマ 5章12〜21節 2013年9月11日 |
このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。(18)
主イエスの従順とその死によって全人類のための救いの道が開かれたということを、パウロは神に造られた人間が罪を犯した時のことと比較しながら論証します。最初に創造されたアダムは神の御言に背き、食べてはならないと言われていた善悪を知る木の実を食べて、罪を犯してしまいました。そのことによって、罪がこの世に入り、また罪の結果である死が入り込んで来ました。もちろん、真面目な人、立派な人もいることでしょう。しかし、罪のない人はいませんし、死の支配をまぬかれた人はいません。
しかし、アダムというひとりの人の罪によって死が入ってきたように、主イエスが父なる神の前に十字架の死にまでも従順に歩まれたことを通して、すべての人が義とされる力強い恵みの世界が開かれました。そしてこのあふれるばかりの恵みによって、今度は死ではなく、永遠のいのちがもたらされたのです。
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