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ローマ 9章1〜5節     2013年9月30日

わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。(2〜3)

 さて、八章でキリストの救いと恵みが高らかに歌われて、九〜十一章では、神の救いのご計画の歴史的展開がユダヤ人の歴史を中心に論じられています。神が歴史の中でどのような救いの計画をもっておられるのかについて語られるのです。この箇所は必ずしも分かりやすくはないかもしれません。しかし、この九〜十一章はいわばローマ書の骨であって、この部分が全体を支えているとも言えのです。
 今日読んだ九章の初めで、パウロは自分には大きな悲しみ・絶えざる心の痛みがあると言います。それは自分の肉による同族であるイスラエル人たちが神に対して背を向けて歩んでいるということでした。パウロはしばしばユダヤ人たちから執拗な迫害を受けていました。そしてパウロもまた自分が神から異邦人に福音を伝えるようにと召されている、という自覚を強く持っていました。しかし、同時に彼の中にはイスラエル人が救われるためなら自分が捨てられてもかまわない、というような強い愛と祈りがあったのでした。

ローマ 9章6〜13節     2013年10月1日

まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。(11〜12)  

 イスラエル人ではない、異邦人に救いがもたらされたというのは、旧約聖書の言葉が何らかの変更を余儀なくなされたということでしょうか。いいえ、神の言は変わったり、無効になることはありません。確かにイスラエルの民に与えられた救いと選びの約束は今も生きています。
 ここで、パウロは、神がアブラハムに祝福の約束をされたといっても、実際にその祝福を受け継いだのはアブラハムとサラとの子であるイサクだったし、イサクの子どものエサウとヤコブの中で選ばれたのは弟のヤコブの方だった、と言います。つまりアブラハムの子孫として生まれたから自動的に神の祝福を受け継ぐのかというと、そうではない。そしてこのイサク、ヤコブに共通することがあります。それは二人はそれぞれ生まれる前に、神の選びが約束されていたということです。救いはあくまでも、人間の業ではなく、神の恵みによって私たちに与えられたのです。私たちは自分の救いに関して、何も誇ることはできないのです。

ローマ 9章14〜18節     2013年10月2日

ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。(16) 

 イサクやヤコブが生まれる前、まだ何もする前に、神がイサクやヤコブを選ばれたのは神の側で不正が行われたということなのでしょうか。いいえ、神が自らあわれもうとするものをあわれまられるのは神の自由です。またもし、私たちが生まれて、成長し、ある程度歩んでから、その姿勢を見て神が判断をされるとすれば、私たちはすぐに、自分はこんなに性格がよくて真面目だから神に選ばれたのだ、と自分の義を誇り、そうでない人を見下げ、裁くようになるでしょう。しかし、私たちの救いは、私たちの意志や努力にはよらず、ただ神のあわれみによって、私たちに与えられるのです。
またエジプト王パロは、心をかたくなにして、神を拒むことによって、かえって神の大きな力があらわされるということが起こりました。私たちには、神のなさることが全部は分かりません。けれども、私たちの救いの背後に、神の深いご計画とあわれみがあることを忘れないでいたいと思います。

ローマ 9章19〜29節     2013年10月3日

栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされた(29)

 イサクやヤコブは神の祝福にあずかり、パロは心をかたくなにした・・・だとしたら、どうして私たちは責任を問われるのでしょうか。神がそのように選び、そのように定められたら、私たちはどうして神の意図に逆らうことができるでしょうか。私たちは神の業に文句を言うことはできません。神は創造者であり、私たちは造られたものだからです。
 実際には、本来だったら、すぐにでも怒りを表し、滅ぼされてしまっても仕方がない者を神は忍耐をもって忍んでおられます。また本来、神のあわれみには到底あずかることのできない私たちをあわれみ、神のすばらしい栄光の富を知らせてくださるのです。
 神は異邦人として生まれた者たちにもそのすばらしい福音を示し、その福音にあずかって救われる道を備えてくださいました。神の民でなかった者、当然滅ぼされるべき者たちを憐れんで、救いにあずからせてくださったのです。

ローマ 9章30〜33節     2013年10月4日

義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。(31〜32)

 もともと神の律法はイスラエル人に与えられていました。しかし、イスラエルの民はその与えられた律法にあからさまに背いて歩んでいきました。その結果、イスラエルはアッスリヤ、バビロンといった大国に滅ぼされ国を失います。世界中に散ったイスラエルの民は、自分たちがなぜ滅ぼされ、国を失ったかを考え、反省しました。そこで彼らは今度は律法を破らないように真面目に生きようとします。しかし、彼らは自分たちが真剣に律法を行っていけば、神はそれを喜んで、自分たちを救ってくださると考えたのでした。その結果、イスラエルの民は、まるで自分たちの真面目さが自分たちを救うかのように考えるようになったのです。そして、彼らは自分の義を誇り、人を裁くようになりました。
 しかし、律法は神の御心に達し得ない自分の姿を認めて、神を信じ、そのあわれみにすがるようにと、神が私たちに与えて下さったものだったのです。 



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