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ローマ 6章1〜4節     2013年9月12日

わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。(4)

 アダムが罪を犯して以来、人間は皆、罪と死の支配の下に置かれていました。モーセの律法は私たちにいのちをもたらしたのではなく、律法によって神の御心が明らかに示されたことによってますます罪が明らかにされ、神の御心が指し示された時に私たちの罪もますます増し加わりました。しかし、罪の増し加わるところには恵みも増し加わりました。
 ただだからといって、罪を犯し続けてよいということではありません。私たちは、バプテスマを受けました。それはお葬式であり、誕生日です。水の中を通ることによって、私たちは主イエスの死に合わせられて罪に対して死んだのです。罪に対して死んだ私たちが、喜んで罪を犯し続けるというようなことがどうしてあるでしょうか。私たちは主イエスの死に合わせられて罪に対して死に、主イエスがよみがえられたように、いのちの新しさに生きる者へと変えられたのです。

ローマ 6章5〜11節     2013年9月13日

わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。(6)  

 私たちは主イエスを信じて罪赦され、義とされて、神と和解し、永遠のいのちを与えられます。しかし、救われた私たちはその後、どのように歩むのでしょうか。主イエスの身代わりの死によって、私たちの罪が赦されるのはわかります。けれども、何度赦されても、私たちは罪を犯し続けるのではないでしょうか。
 確かに、私たちがこの地上を歩んでいる間は、罪を犯さなくなってしまう、犯す可能性が消滅する、ということはありません。けれども同時に、私たちが罪に支配され、罪の言いなりにされることはありません。
 私たちを縛り付け、悪魔の言いなりに生きるようにさせていた「古き人」とか「肉」とか呼ばれている罪の性質を私たちは自分の力でどうすることもできませんでした。しかし、その古き人を、キリストはその十字架の上で処分し、私たちが主イエスの復活のいのちに生きることができるようにしてくださったのです。

ローマ 6章12〜14節     2013年9月14日

あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。(13)   

 主は私たちのために十字架の上で死んで、私たちを罪の縄目から解放してくださいました。ですから、私たちはもはや罪に従う必要はありません。私たちは以前は、罪に自分をささげ、罪の言いなりになって生活していました。情欲や不義に身をゆだね、人を憎み、恨み、ねたみ、神がお嫌いになる歩みを続けていました。
 しかし、今は私たちは、私たちを愛し、私たちをあがなってくださった神に自分をささげて生きるのです。ここでパウロは「肢体を」と言います。それは私たちの目であり、耳であり、口であり、手であり、足です。私たちが何を聞くか、何を語るか、何を見るか、何をするか、どこに行くか・・・というようなとても具体的な部分で、神にそれをささげていく。私たちの肢体は、今や、義の武器なのです。神は、強制的にそのことをさせようとはなさいません。私たちが神を愛し、心から喜んで神にささげ、具体的に従うことを願っておられるのです。

ローマ 6章15〜23節     2013年9月15日

罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。(23)   

 私たちは以前は罪の僕として生きていました。罪に支配され、主人である「罪」の言いなりになって、汚れと不法の中に生きていました。罪が主人でしたから、私たちは、その主人である罪に従うしかなかったのです。そして、その主人である罪は、私たちに死という報酬をもたらしたのでした。
 しかし、主イエスは私たちを、その罪から解放してくださいました。もうすでに罪は私たちの主人ではありません。もう二度と、罪に従って生きる必要はないのです。しかし、罪が主人ではないということは、もう自由だから自分の好きに生きていくのだということではありません。私たちは神のしもべ、義の僕となったのです。そして、神はご自身に仕える僕たちにすばらしい祝福を備えてくださいました。それは私たちのがんばりに対する報酬ではありません。それは信じ、仕える私たちのために神が備えてくださっている恵みの賜物、プレゼント・・・永遠の命です。それはいつまでも死なないいのちという以上に、神との親しい、生きた交わりの中に生きるいのちなのです。



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